「失礼いたします」
襖を開けたのは、先程シチロージと共に座敷を出て行った芸妓だった。開いた襖の向こう、店の女将が三つ指をついて深々と礼をしてから、ちらりと背後を見やる。
静かな足音。襖の陰から姿を見せる人影。その姿に、座敷の全員が息を呑んだ。
赤の着物に、金糸銀糸で縫われた大輪の牡丹が咲いている。黒地の帯にも金銀の刺繍で流水の模様がうねり、着物の赤をいっそう引き立たせていた。金の帯締めに、蝶を模った鼈甲の帯留めを合わせている。淡い水色の羽織にも蝶が染め抜かれて、まるで牡丹の花の上を蝶が舞っているかのようだった。
人影が、ゆっくりと顔を上げる。下ろした金の髪がさらりと零れ、色の白い顔の輪郭を際立たせる。目尻と唇に紅を差した美貌が、無言のまま柔らかく微笑んだ。サムライが駆ける空の色を思い起こさせる碧眼が座敷をゆっくりと見渡し、そして静かに頭を下げる。美しい着物に全く引けを取らない美貌に、その場の誰もが見惚れてしまっていた。
再び顔を上げた「彼女」の碧眼がカンベエを捉え、穏やかに笑う。開いた口が塞がらないという表現が相応しい調子で、カンベエは呆然と呟いていた。
「シチロージ……」
戦場で命を預ける副官の姿を見間違えるはずがないが、それでもカンベエは自分の見ている光景が信じられなかった。「彼女」の装いはあまりにも完璧で、何の違和感も抱かせなかった。案の定、カンベエの言葉に周囲が大きくどよめいて、カンベエは自分以外が「彼女」をシチロージだと気付いていなかったのだと悟った。
カンベエの前に座した男もまた、シチロージの見違えるような装いにあんぐりと口を開けて硬直している。その脇をしずしずと通り過ぎて、シチロージがカンベエの隣に歩み寄った。カンベエを見下ろす碧眼に悪戯っぽい光が煌めいたことに気付いた瞬間には、「彼女」はカンベエの隣に腰を下ろし、白い手を思わせぶりにカンベエの肩へと乗せていた。寄せた顔からふわりと立ち上る白粉の匂い。カンベエの耳元に、紅を塗った唇が近付く。
「カンベエ様……」
普段の声よりも少し高く繕った声が、カンベエの名を呼ぶ。自分でも間の抜けた顔をしている自覚があったカンベエへ、絡み付くように腕を回してしな垂れかかり、そうしてカンベエに身を寄せたシチロージがようやく男の方を見た。口元に薄く笑みを浮かべた刹那の後に、その目が激情で青く燃え上がる。鬼火を瞳に宿らせながら微笑む様はまるで般若のようで、カンベエでさえも寒気を覚えるその笑みを真っ向から向けられ、男が身を引き攣らせるのが分かった。
「ヨシミ様」
名を呼ぶ声音は氷点下に凍り付き、それだけで男を刺し殺せそうな響きを伴っている。男がヒッと情けない悲鳴を上げ、一歩後退りした。
男だけではなく、恐らくこの座敷に居る全員が、この絶世の「美女」に言いようのない恐怖を抱いていた。貶められ辱められたシチロージが、限界を超えた怒りを全身に滲ませているのが伝わってくるのだ。それはもはや怒りという段階を通り越して、戦場で敵に向ける殺気に等しい。日頃の物腰柔らかな様子とは打って変わったその圧倒的な気に、誰もが言葉を失い、呆然とシチロージを見つめていた。
カンベエから手を解いたシチロージが、一歩、また一歩、男ににじり寄る。腰が抜けたようにへたり込んで動けない男へと、抜き身の刃のような笑みを向けて、己の羽織の下へと手が隠れたかと思うと、その直後、目にも留まらない速さで手が動いた。
どす、と響き渡る音。愛用する朱塗りの合口を男が座るすぐ前の畳に突き立てて、怒りを極限まで押し潰した声で、シチロージが吐き捨てる。
「二度と、汚い手で触るんじゃねえ」
ぞっとするような光を湛えた氷の瞳に睨まれ、男はがくがくと震えている。誰一人、何も言うことができなかった。座敷の中だけ時間が止まってしまったかのような錯覚。この場を完全に支配した「美女」が、凍り付くような無表情から一転、合口に手を添えたままにんまりと凄絶な笑みを浮かべて、そこでようやく弾かれたように、男の部下が立ち上がった。
「……っ、貴様、無礼も甚だしい!」
動揺が見て取れる上擦った声で叫び、部下の一人が刀に手をかけようとする。それに気付いたカンベエは素早く立ち上がると、その手ごと男の刀を掴んで抜刀を阻んだ。ぎょっとした男がカンベエを見るも、カンベエの瞳に沸き立つ怒りの色に気付いたのか、男の顔が見る間に青褪めていく。
「無礼はどちらだ。おぬしらの所業、腹に据えかねる」
「貴様……!」
「刀が無くとも、おぬしらに負ける気はせんのでな」
押し殺した声で告げるカンベエの背後に人の集まる気配。前線部隊のサムライ達全員が、男達に対する殺気を静かに漲らせている。今宵受け続けた侮辱への怒りが全員の中で煮え滾り、いよいよ爆発寸前となって三人へと向けられていた。
ここへ来てようやく自分達が不利だということに気付いたのだろう、男の腰巾着二人が不安げな目を己の上官へと向ける。シチロージの怒りにすっかり怯えきった男が茫然自失となって言葉を発せないでいるうちに、この場の前線部隊を束ねるノブヒロが、カンベエの傍らへと一歩を踏み出した。
「ヨシミ様。これでもまだ、我等を愚弄いたしますか?」
仏頂面で淡々と告げる中隊長の声にも、明確な怒りが満ちている。その場のサムライ全員の目を向けられた男がごくりと唾を呑んでから、よろよろと立ち上がった。
「もう良い、斯様な不味い酒など飲んでいられるか!」
この状況でまだ威勢の良いことを言えるその神経に、カンベエは呆れを通り越して感心してしまった。だが男はシチロージの怒りに呑まれて腰を抜かしたのだろう、立ち上がるなりふらふらと覚束ない足取りになって、部下の一人が慌てて肩を貸す。余分なものが鱈腹詰まった腹を部下一人では支えきれず、二人揃ってよろけている情けない姿を見て、刀を掴まれた腰巾着がカンベエから刀をひったくり、反対側から男へと肩を貸した。
「貴様等、覚えておれ……!」
両脇を支えられた滑稽な格好で最後に捨て台詞を吐いて、男三人が座敷を出て行く。その一部始終を襖の脇から見守っていた女将がすかさず立ち上がり、膳を片付けていた丁稚を呼び止めた。
「あいつらが出て行ったら、玄関に塩を撒いておくれ」
「承知しました、女将さん」
どうやらあの男達の素行の悪さを知っているらしい丁稚が、笑顔で男達の後を追う。ばたばたと遠ざかる足音、程無くして何やら男達の野太い悲鳴が響いたような気もしたが、やがてそれも聞こえなくなる。周囲の座敷の楽しげな喧噪だけが耳に届くようになって初めて、女の装いをしたシチロージが盛大な溜息を吐いた。
「全く、とんだ災難――」
シチロージはそれを最後まで言い切ることができなかった。周りの同僚達が、興奮した様子でばしばしと彼の背中を叩いたからだ。
「でかしたぞ、シチロージ!」
「大したもんだ!」
「あ痛っ、ちょっと、店の一番良い着物なんですからね、これ!」
労い代わりとばかりに背中を叩かれるシチロージが悲鳴を上げ、はしゃいでいた同僚がぎょっとしたように手を止める。とても弁償できそうにない着物を汚しては一大事と思ったのだろう。そんな一同の様子を見ていた女将が、堪えきれないといった様子で噴き出した。
「ふふ、可笑しいったらありゃしない……ごめんなさいね、おサムライ様。でも何だか面白くってねえ」
シチロージと共に戻ってきていた芸妓二人も、面白そうにくすくすと笑っている。今夜初めて見た二人の笑顔にその場の雰囲気が幾分か和んだ直後、ノブヒロが女将に対して深々と頭を下げた。
「女将。我等のせいで迷惑をかけてしまい、申し訳ない」
中隊長の静かな声は、普段よりも更に固い。一同がその声色にはっと我に返って、その場に居たサムライ全員が女将の方を向き、深く頭を下げる。いくら逃げ帰った男達の側に非があるとはいえ、結局は自分達のせいで店に迷惑をかけたのだ。その事実を一気に自覚して、サムライ達はすっかり恐縮してしまった。
「おサムライ様方、どうかお顔を上げてくださいな」
だが、そんな一同に対して、女将が穏やかに語りかける。全員が恐る恐るといった様子で顔を上げるのを確認してから、女将が男に侍らされていた芸妓たちを見渡し、柔らかな笑みを浮かべた。
「おサムライ様も知ってるでしょう。あの輩のせいで何度も、うちの大切な子達は嫌な目に遭ってきたんですよ。だから皆様が一泡吹かせてくれて、いい気味ってもんさ。だからどうかおサムライ様方、うちのお料理を楽しんでいっておくれ」
「しかし、」
「本当に、店からの感謝の気持ちだと思ってくださいな。それにお代のことなら、これまでの迷惑料も含めて、全部あの輩に耳を揃えて請求させてもらいますよ」
「ハハ、そりゃ良いや」
女将の言葉に真っ先に反応したのはシチロージだった。装いこそ女のままだったが、いつもの人好きのする笑みをようやく取り戻している。物怖じしないこの青年らしい軽口を、今宵咎める者がこの場に居るはずもなく、何よりシチロージの反応を女将や芸妓達が好意的に受け止めていることも伝わってきたから、サムライ達はようやく緊張を解くことができた。
「お心遣い、傷み入る。謹んでご厚意に甘えさせてもらおう」
「ええ、ぜひそうしてくださいな」
女将の言葉を合図に、すっかり冷えた料理や酒が下げられ、新しい膳が運び込まれる。最初からこの座敷に居た二人の芸妓だけでなく、他にも数名の芸妓達がしずしずと座敷に入ってきて、あの男を追い払ったサムライ達へ嬉しそうに酌を始めた。先程までの白け切った雰囲気は何処へやら、座敷はすっかり賑やかな宴会の様相を呈し、結果的にその立役者となったシチロージも、美女の姿のまま同僚から酒を注がれ、称賛の言葉を浴びながら照れ臭そうに笑っている。
そんなシチロージの姿から、カンベエはそっと目を逸らす。散々にシチロージやカンベエ達を侮辱した男達が居なくなり、彼等に向けていた激情が引いた分、ただひたすらに苦く重い気持ちがカンベエの中でぐるぐると渦巻いていた。皆の注目がシチロージへと集まっているのを確認してから、カンベエは周囲に悟られぬよう静かに立ち上がる。今はただ、一人で考える時間が欲しいと思った。
「カンベエ?」
「……少々、酒が回りすぎたようで、風に当たってまいります」
近くに座っていたノブヒロがカンベエの様子に気付いて訝しげに訊ねてくるのに、静かにそう返す。浴びるほどに酒を飲まされた割に頭の中が冷たく醒めていることは、こう見えて存外勘の鋭い上官には見通されている気もしたが、ノブヒロはいつもの仏頂面のまま、そうかと頷くだけだった。
「おぬしも、よく耐えたな」
「ありがとうございます」
中隊長からの労いの言葉にも、自嘲気味の笑顔を返すことしかできないまま、カンベエは障子を開けて渡り廊下へと出た。
渡り廊下に囲まれた料亭の中庭には小さな池があり、その周囲を季節の草木が囲んでいる。
座敷の喧噪を背後に聞きながら、カンベエは渡り廊下に腰を下ろし、ぼんやりと中庭を眺めた。日々手入れがされているらしい、見頃を迎えた大輪の芍薬の花が美しく咲き誇り、仄かな香りが大気にしっとりと満ちている。庭の中をそよそよと抜けていく夜風は未だ幾分の涼しさを残していて、その風に当たってカンベエの思考がますます冴え渡っていくような気がした。酒を煽られたものの、頭は冷静を保っていて、むしろそれが、カンベエ自身の自己嫌悪を煽り立ててくる。
――儂の下に来れば、あれの将来は約束されたも同然よ。
先刻男が言い放った言葉へ、カンベエは何も反論できないことに気付かされてしまった。シチロージを辱めた男をカンベエは許せなかったが、それと同時に、この部隊に留まることが彼にとっての最良だと言い切れない自分自身が情けなく、あの男以上に許すことができないでいた。
実際のところ、戦局は決して芳しいとは言えない。徐々に北軍が押されているのは皆が薄々感付いていることだ。だが金も物資も優遇されるのは機械化したサムライばかりで、生身の前線部隊には碌な戦力増強がなく、結果として最前線に立つカンベエの部隊はひたすら負け戦が続いていた。そんな部隊に留まっていても、武功の一つも立てられないどころか、明日には命を落としてしまうかもしれない。カンベエ自身はそうして戦い続ける以外に生きる道がないと思っているが、前途有望なシチロージにはもっと輝かしい場所に立つ未来が残されている筈なのだ。そしてその未来は、カンベエの下に居る限り決して叶わない。
――あれの幸せを願うのであればこそ、悪い話ではあるまいて。
「幸せ、か……」
嫌でも思い出してしまうあの男の言葉を噛み締めながら、カンベエは柱に背を預け天を仰いだ。カンベエ達が戦場とする空は薄雲で覆われ、月も星も見えず、ただ一面の闇が広がっている。その闇はまるで、先の見えない未来をそのまま映し出したように思えた。
このまま自分の下で負け戦を続け、いつか墜ちる日まで共に空を駆けることが、果たしてシチロージにとって幸せなのだろうか。先の見えない闇の中を飛ぶよりも、彼にはもっと良い生き方があるのではないだろうか。そんなことを考え続けていたとき、すっと障子が開いて、見慣れない姿をした青年の、よく見知った顔がひょこりと覗いた。
「カンベエ様」
化粧をした、そこらの女よりも余程美しい顔が、カンベエを見つめてにっこりと笑う。障子を開けて渡り廊下へと出ようとするシチロージを呼び止める声が座敷の中から聞こえてきて、彼はそれにも笑顔で振り返った。
「先輩方、そろそろ旦那の所に行かせてくださいよ!」
冗談めかした口上が、座敷にどっと笑いを巻き起こす。その一言により宴席から解放されたらしいシチロージは渡り廊下に出ると、後ろ手に障子を閉めてカンベエの方へと顔を向ける。美しく着飾った己の部下を、カンベエは直視することができない。それとなく中庭の方向へと視線を滑らせる間に、肌に馴染んだ気配がすぐ傍らに立つ。
「聞きましたよ。あの爺に随分飲まされたそうじゃないですか」
「儂は酔うてはおらん」
「酔っ払いは皆そう言うんです。水をお持ちしましょうか?」
「要らぬ」
返す声につい棘が混ざるのは、己の不甲斐なさに対する自己嫌悪の裏返しだ。このような言い方しかできない自分にますます嫌気が差して、じっと顔を中庭へと向けていると、己の頭上、シチロージが大袈裟なほどの溜息を吐いた。
「カンベエ様。折角の晴れ姿、ちゃんと見てくださいよ」
「おぬし、冗談は止せ」
思わず向き直って、シチロージと目が合った瞬間、カンベエはそこから目を逸らせなくなる。渡り廊下に座るカンベエを見下ろすシチロージの目は夜の闇に翳って、深い海のように底の知れない碧を湛えていた。
「やっとこちらを見てくださいましたね」
「シチロージ……」
「折角丸く収まったのに、カンベエ様は何をお怒りなんです?」
シチロージが膝を折り、カンベエと目線の高さを合わせる。翳りの消えた鮮やかな碧眼に吸い寄せられるように、カンベエはシチロージを見つめた。強さと美しさとを兼ね備えた、前途有望の若きサムライ。このまま前線で星と散るには、あまりにも惜しい男。
口を開きかけて、カンベエはシチロージの眼差しから無理矢理に視線を剥がした。彼の目を見て話すのが恐ろしかった。その澄んだ碧はまるで鏡のようで、己の情けなさをくっきりと映し出す気がした。
「あの男の言うことも、一理あるのだと思ってな」
「……は?」
「負け戦ばかりの儂の下にいたところで、おぬしは幸せになれぬだろう。おぬしの才を発揮するに相応しい場所が、他にあるかもしれぬ」
カンベエには、もはやこう言うことしかできなかった。部下の将来も約束してやれないとはなんと情けない上官かと思ったが、実際にそうなのだから仕方がない。けれどもいざそれを口にしてみて、カンベエはシチロージの反応が恐ろしくなる。ハイそうですかと呆気なく背を向けられるのは、彼の将来には良いのかもしれないが、カンベエにとってはあまりにも惨めで、許し難い結末だと、口にして初めてカンベエは思い知らされた。
彼を思っても尚、手放すことができないなど、なんと身勝手な男だろうと自分を呪う。やはりそのような上官からは、この青年を解放してやるべきなのだろう。だがそう己に言い聞かせつつも現実を受け止めるのが恐ろしく、シチロージから目を逸らしていたカンベエは、目の前で身を屈めた男の纏う気配が徐々に冷えていくことにふと気付いた。やはりこの若い副官はカンベエに失望したのだ。本当に無様な上官だと自嘲しながら顔を上げて、そこでカンベエははっと息を呑んだ。
シチロージが、凍り付いた目でこちらを睨んでいた。
美女の装いをした青年の瞳は氷点下に冷え、その中にふつふつと強烈な怒りが煮え滾っている。激情を押し殺した表情は座敷であの男に向けたものと同じで、息を詰まらせたカンベエの背を嫌な汗が伝った。
シチロージの手が、素早く動く。六花が彫られた色の白い左手が、同じ彫物のあるカンベエの浅黒い右手を掴む。指の腹が食い込むほどの力の強さに、シチロージの内で燃える怒りの強さが表れていた。
「あの豚に何を吹き込まれたんです、カンベエ様?」
「シチ、」
「まあ、大体の想像はつきますがね。どうせ私を引き抜きたくて色々と言いがかりをつけてたんでしょう?」
冷たい目のまま、紅の乗った口元にだけ凄絶な笑みが浮かぶ。ぎりぎりと締め上げられるように手首を掴まれて、カンベエはその手を振り解くことができない。自分を睨むシチロージが恐ろしく、カンベエは今すぐにでもこの場を逃げ出したかったが、体が酒に呑まれているのか、或いはシチロージの怒りに中てられたか、体がまるで言うことを聞かなかった。
「確かに、あの無礼な男に、おぬしを渡したいとは思わぬ。だが、」
「だが、何です?」
シチロージの目が、恐ろしい。カンベエの心中を見通すようにその目を覗き込む碧眼を前に、自然とカンベエの語気が弱くなる。
「中央に行くことそれ自体は……おぬしにとっては、決して悪い話ではないだろう……」
シチロージの顔から表情が消える。カンベエの手を掴む力だけは一向に緩まない。しばしの無言の間が、カンベエには永遠のように感じられた。やがてシチロージが、軽薄な笑みを口元に乗せる。その碧眼の奥が欠片も笑っていないことは、どう見ても明らかだった。
「カンベエ様。立ってください」
言うとほぼ同時、カンベエの手を掴んだままシチロージが立ち上がり、カンベエも半ば引き摺られるようにして立ち上がった。急に立たされてよろけるカンベエに構わず、シチロージが歩き出す。
「シチロージっ」
「お見せしたいものがあるんです」
焦るように名を呼ぶカンベエを、シチロージが一瞥した。少しも感情を伴わない、氷のような笑顔。その冷たさに固唾を呑む間にも、シチロージはすたすたと歩みを進める。
あの男に煽られた酒は、体にはしっかりと回っているようだった。足元が縺れ、シチロージの力に勝てず、カンベエはシチロージに引かれるまま、渡り廊下を歩くことしかできない。人がようやくすれ違えるほどの幅の廊下を二、三度曲がり、部屋の一つの前に辿り着くと、その障子をシチロージが乱暴に開け放ち、カンベエの手をぐいと引いて部屋に押し込んだ。
そこは十畳ほどの、こぢんまりとした和室だった。中には二人分の布団が並べて敷かれていて、突然の光景に驚く間もなく、シチロージの手に思い切り背中を押され、カンベエはたたらを踏んで布団の上に突っ伏す。
「っ!」
背後で勢いよく障子の閉まる音。どうにか仰向けに体を起こし、布団の上で座るような体勢になったカンベエを、障子のすぐ前に立ったシチロージの冷たい双眸が見下ろす。
「こ、此処は……」
「あの豚野郎が準備させていた部屋だそうで」
シチロージの言葉に、カンベエは困惑を隠せない。あの男は宴席を楽しんだあと、この場に泊まるつもりだったのか。それにしては、布団が二人分というのは些か奇妙だった。腰巾着が二人居るのだから、三組の布団がなければ全員が泊まることはできないし、二組の布団をまるで夫婦が寝るように繋げているのを見ると、どう考えても彼が部下とこの部屋を使う様子を想像できなかった。
何とか男の意図を探ろうと部屋の様子を見渡すが、それ以外何の変哲もない和室に手がかりはなさそうで。意図を図りかねてシチロージを見上げるカンベエを見ておおかたの状況を悟ったのだろう、シチロージが大袈裟に溜息を吐く。
「まだお分かりにならないんですかね、カンベエ様」
「どういう意味だ」
カンベエが問うた瞬間、素早く近付いたシチロージがカンベエの肩を掴み、その体を布団へと押し倒した。
豪奢な着物を纏った「美女」が、カンベエの手をぐっと掴んで布団に縫い止める。咄嗟に跳ね除けようとしたが、酒の回った体に上手く力が入らない。それどころか、ぞっとするような冷たい光を湛えた空色の瞳に睨まれ、カンベエは抵抗の意志さえも奪われてシチロージを見上げることしかできなかった。そんなカンベエを見下ろし、シチロージが目を細める。まるで口を開くのもおぞましいと言わんばかりに表情を歪め、そして吐き捨てる。
「あの爺、此処で私を抱くつもりだったんですよ」
「……!」
衝撃のあまり、言葉が出てこなかった。
「わざわざ私にこんな装いまでさせて、本当に女房扱いする気だったんでしょうね。ああ、気色悪い」
そう言って、大袈裟に身震いしてみせるシチロージ。あの男がシチロージに対し矢鱈と「女房」と強調していたのを思い出し、カンベエは眩暈に襲われる。そしてシチロージが最初から、あの男に対し異常なまでの嫌悪を示していたことも思い出していた。この若い副官は最初から、あの男の下卑た魂胆に気付いていたのだ。
「あの豚が私を引き抜こうとしたのは、私の体が目当てです。それなのにカンベエ様は、あれにも一理あると仰る」
「それは、あの男がおぬしの才を買っていると……」
必死の弁解も、最後まで言い切ることができなかった。怒りで燃え盛る碧眼に真っ向から見据えられ、言葉を続けられない。
「私は、あなた以外にお仕えする気など、ありません」
「シチロージ」
女の装いをした年若い副官の手が、カンベエの軍服の胸元を掴む。碧く燃える双眸の内、怒りの中に悲しみの色が滲み出て、カンベエはそこから視線を逸らせなくなる。
「それなのに、あなたは私を売ろうとなさる」
シチロージの手に力が籠もる。その端正な顔が、苦しげに歪む。飄々とした古女房のこのような激情を目の当たりにするのは初めてだった。呆然と見上げる先、シチロージの絞り出すような声が零れ落ちてくる。
「先程、あなたの下では私が幸せになれないと、そう仰いましたよね」
「負けが込む儂の下に居ても、おぬしは……」
未来がないだろう。そう言いたかった。最後まで言えなかったのは、カンベエを見下ろすシチロージの瞳があまりにも切実な光を帯びていたからだ。
「私は、あなたに仕えることが幸せなんです、カンベエ様」
きっぱりと言い切るシチロージに、カンベエは何も答えることができない。
「私でなくて、誰があなたの背中を守るんですか? あなたの刀の速さに追いつける槍が、私の他に居るとでも?」
襟元を掴む手の、ただでさえ白い肌の色が、握り締めるあまり血の気を失って蒼白になっている。怒りと悲しみとで塗り潰されたシチロージの双眸が、カンベエを映して震える。
「カンベエ様は、私以外と空を駆けるおつもりですか?」
「シチ……」
縋るような声を出すシチロージを、カンベエは見上げることしかできなかった。
この年若い副官が、自分を慕い、敬っていることは知っていた。知っているつもりだった、と言った方が正しいのかもしれない。彼の持つ感情の大きさに、カンベエは気付いていなかったのだから。
シチロージは、カンベエの下から離れることなど考えたこともなかったのだろう。そんな彼の気持ちが恐ろしくもあったが、心のどこかで嬉しいと感じている自分もいる。カンベエとて、シチロージを手放したくはないのだ。彼は優秀な副官であり、得難い戦友であり、そして――
「……兎に角、私はあなたの副官を辞めるつもりはありませんからね」
見つめ合っていたシチロージの目から、不意に激情の鬼火がふつりと消える。
青年の声は一転して、普段の調子に戻っていた。軍服の襟からするりと解ける手。未だカンベエを押し倒している体勢ではあったが、シチロージの表情にはもう、先刻の身を切るような必死さはなく、いつもの洒脱な笑みが浮かんでいる。その変わり身の早さが、カンベエを動揺させた。
この若い部下は時折、こうした態度を見せることがある。それは策を弄しているのかもしれないし、彼自身が生来持つ気質そのもののようにも思われた。まるで移り変わる空の色のように、その本心が分からなくなる。今も正にそうだった。急に煙に巻いたように激情が消え去って、その行く末を辿るように見上げたカンベエの不安げな視線の先、化粧を施した美貌にふと、軽薄な笑みが浮かぶ。
「シチ、ロージ?」
その笑顔を見た瞬間、なぜだか寒気がした。
薄ら寒い微笑を浮かべたシチロージの顔が、カンベエへと近付く。軍服から離れた手がカンベエの顎から頬を伝い、その指先が、カンベエの耳飾りを弄んだ。かつ、と金具が触れ合う小さな音、それから何故か、ぞっとするほど熱の籠もった声色。
「滑稽だと思いませんか、あの豚。こんな姿にさせれば、私が股を開くとでも思ったんですかね」
「う、ぁ」
耳朶を、耳の裏側をつうと撫でられ、思わず素っ頓狂な声が漏れる。ぞくりと背筋が粟立ち、咄嗟にシチロージの腕を握り締めていた。そんなカンベエの反応を面白がるように、美貌がよりいっそう深い笑みを浮かべ、カンベエの耳元へ口を寄せる。
「私は誰にも股を開くつもりなどないのに。そうでしょう、カンベエ様?」
鼓膜を揺らす熱っぽい声に明確な意図を感じ、カンベエはようやく抵抗を試みようとした。だが既に体はシチロージにしっかりと押さえ込まれていて、酒精も手伝ってか体に上手く力が入らない。ひたすら酒を煽ってきたあの外道の男を内心で呪ったが、時既に遅しだ。
「シチロージ、止めよ……」
あまりにも弱々しい声で拒絶の言葉を呟けば、カンベエの顔を撫でていたシチロージの手がぴたりと止まる。
シチロージの意図が、分からないわけがない。何故ならカンベエは、既にシチロージとそういう関係にあるからだ。同じ部隊の一員、それも隊長と副官として片時も離れることがなくなるような間柄となり、いつしかカンベエとシチロージは情を交わすようになった。いつ命を落とすかもしれない男所帯の軍隊の中、結び付きの強いもの同士がそうした体の繋がりを持つのは決して珍しい話ではない。ただ、日頃は古女房と同僚から揶揄われているこの年下の美丈夫は、夜伽となると檻から放たれた肉食獣のように強く、激しく、そして優しくカンベエを求めてくる。うら若き部下がそれほどにカンベエを求めることに最初は戸惑いを隠せなかったが、いつしかカンベエも、そのしなやかで逞しい腕に抱かれることに、安らぎと面映ゆさを感じるようになっていた。
だが、今の状況では、話は別だ。仮にも料亭の一室で、女の姿をしている部下に抱かれるなど、いくらなんでも正気の沙汰とは思えない。
「今は、駄目だ……」
手が止まったシチロージに、念を押すように言う。間違ってもこの男が嫌になったわけではなく、単にこの状況で体を開くことが耐えられないだけだった。
シチロージは動かない。じっとカンベエを見下ろす空色の碧眼は、薄雲がかかったかのように何の感情も読み取れない。その目がすっと細められて、次の瞬間、ざらりと熱い舌が、カンベエの耳朶を這い上がった。
「っァ……!」
「たまにはこういう趣向も良いじゃないですか」
びくりと跳ねた肩をしっかりと押さえつけられ、耳を甘噛みされる。シチロージから、逃げられない。指に、舌に触れられた部分から熱が込み上げ、その疼くような熱さにぞくぞくと震えながらカンベエは思う。鳴りを潜めたように見えた激情は、この青年の中で今も轟々と渦巻いているのだと。
「おぬし、っ、怒っておるな……?」
そう聞いた瞬間、シチロージが口を離し、カンベエの体を押さえつけたままその目を真っ直ぐに覗き込んだ。碧眼の中、美しくもおぞましい鬼火がちろちろと燃えている。口元ににいと浮かんだ笑みはまるで、獲物を前にした獣のようだった。
「そりゃもう、あなたに売り飛ばされそうになったんだから」
「だから、それは、ッ」
反論は聞きたくないとばかり、乱暴に唇を塞がれた。
シチロージの両手が、カンベエの顔を抱える。逃がす気はないとばかりに顔を囚われ、開いた口に舌を捻じ込まれ、れろ、と絡み合わされる。舌が絡まり、唾液の混ざる水音。粘膜を舌が這うぬるついた感触。息ができず、頭がくらくらと酔い始めるカンベエの鼻腔を擽る、ほんのりと甘い白粉の匂い。霞む視界の中、流麗な目尻を染める紅の鮮やかさが目を引いて、そしてようやく、解けた口元から新鮮な空気が流れ込んだ。
「っ、はぁ、」
胸を上下させてぜえぜえと呼吸するカンベエの上で、シチロージが妖艶な笑みを浮かべている。紅を差した唇は唾液で濡れて、それがよりいっそう生々しい。カンベエを見下ろす碧眼の中、ちかちかと獣の光が見え隠れして、シチロージは本気なのだと、カンベエは酸欠でぼやけた頭で思った。これ以上はいけないから、どうにかして止めなければ、とも。
「シチ……その着物、借りた物なのだろう?」
荒い呼吸の合間、喘ぐように問いかければ、シチロージが微かに首を傾げてから、ふわりと美しく微笑む。
「ええ。あの豚に一泡吹かせたくって、店で一番良いものを貸してもらいました」
金銀の牡丹で彩られた艶やかな赤の着物に、淡い色の羽織を引っかけて、まるで春霞の立ち込める景色を見ているようだった。色の白い肌に、色素の薄い金髪によく映える、壮麗な晴れ姿。その美しい装いに負けず劣らずの美貌で微笑む古女房に思わず目線を奪われながらも、カンベエは最後の矜持に縋るようにして、苦し紛れに言う。
「そのような着物を、汚すわけにはいかぬ」
それが拒絶の意味だと、果たして伝わったのか。カンベエの言葉を聞いたシチロージが呆気に取られたような顔をして、それからくつくつと笑い始めた。覗き込むように近付く秀麗な顔、美しく笑みの形を作った唇が開いて、残忍な言葉を紡ぐ。
「この着物も、カンベエ様のお召し物も、汚さないように上手くやりますよ」
そう言うな否や唇を奪われて、カンベエは己に抵抗の余地が残されていないことを遂に悟るしかなかった。