北軍の基地にほど近い料亭は、時代の寵児たるサムライと、そのサムライ相手に商売をするアキンドとで連日賑わっている。
今宵も賑わいを見せるその料亭の中で一室だけ、白けきった座敷があった。座敷に集うのは皆、軍服姿のサムライだが、サムライ同士の宴席であれば大抵が無礼講で盛り上がりを見せるものである。だがこの宴席では、上座に座すサムライとそうではないサムライ達との間に、まるで見えない線が引かれているかのようで、下座に座ったサムライ達は皆一様に押し黙り、目の前の酒を飲んだり料理をつついたりしているのだった。
下座に列席するサムライの一人であるカンベエも黙ったまま、舐めるように酒を飲んでいる。このような場で飲む酒が旨いとも思えなかったが、それ以外に時が経つのをやり過ごす方法がないのだ。カンベエの隣に座す副官のシチロージもまた、黙々と料理を食べ続けていて、その端麗な横顔に一瞬目を向けてから、カンベエは苦痛でしかない宴席の長さを思って小さな溜息を吐く。
下座に座っているのは皆、前線部隊に所属するサムライだった。カンベエは幾人かの部下を従える前線部隊の小隊長であり、カンベエと同じ立場である小隊長が何人かとそれぞれの副官とがこの場に一同に会している。更にその小隊長を束ねる、いわばカンベエ直属の上官に当たる中隊長もまた、その副官と共に宴席に呼ばれていた。
一方で、上座に座るのは中央司令部に所属する壮年のサムライだ。尤も、およそサムライとは思えぬだらしなく膨れた体を無理矢理に軍服の中に押し込んでいるから、いつか服の釦が弾けるのではないかと見ているカンベエは思ってしまう。左右に料亭の芸妓を侍らせているが、酒の酌をさせるだけでは飽き足らないのか、矢鱈と彼女らの肩や膝に手を伸ばしては下品な笑みを浮かべていて、見ているこちら側が吐き気を催しそうだ。芸妓達はどうにか作り笑顔で誤魔化しているものの、内心の嫌悪感が引き攣る表情に透けて表れていた。そのサムライの両脇に、男の腰巾着である部下が二人座っているが、彼等も己の上官の傍若無人の振る舞いを止めようともせず、傲慢めいた笑顔で酒を酌み交わしている。
こうした宴席が開かれるのは、これが初めてではない。前線部隊の視察という名目でやってくるお偉方への、いわば接待のようなものだ。恐らく前線部隊の側は誰一人として、このサムライの風上にも置けない男に尊敬の念を抱いていないのだが、彼が人事や予算の権限を多少なりとも握っている司令部所属である以上、おとなしく頭を下げるしかないのが現状だ。
とはいえ、一つ奇妙なこともある、とカンベエは猪口を持ったまま思う。これまでこの宴席には隊長格だけが呼ばれており、副官に至るまで呼びつけられたのはこれが初めてだった。カンベエは再び、隣に座るシチロージの横顔へと目を向ける。副官たるシチロージの反応も、カンベエからすると些かの違和感があった。宴席の話を聞いて彼はあからさまに嫌悪を示したし、実際座敷に来てからも男を一目見るなり「豚が」と小声で吐き捨てて以来、目を合わせようともしない。確かにシチロージにとっては、ああいったサムライと名乗るのも恥ずかしいサムライなどは大嫌いな部類だろうとは思うが、それにしても今回のこの青年の反応は少し過剰だというような気もするのだ。
そうしているうちに、ノブヒロという名の中隊長とその副官が上座の男に手招きされた。彼は無言でそれに従い、副官と共におとなしく男に酒を注がれている。カンベエからはノブヒロの横顔が見える程度だが、いつもの仏頂面にますます磨きがかかっている気がしてならない。どうせ毎度のごとく、負け戦についての小言を言われているのだろう。
「あんな豚野郎に我等の首根っこを押さえられていると思うと、吐き気がしますよ」
「シチロージ、控えよ」
不意にシチロージが、カンベエにしか聞こえない程度の声でぼそりと吐き捨て、カンベエは思わずぎょっとして己の副官を窘める。カンベエとて内心全く同じ思いではあったが、この場で今それをあけすけに言うのは憚られたのだ。
カンベエがシチロージを宥めている間に、男に呼びつけられていた中隊長が仏頂面のまま頭を下げる。その様子に愉悦を覚えるように男が笑い、隣に座った芸妓の膝を厭らしい手つきで撫でる。芸妓が逃げることもできずに顔を引き攣らせる様を見て、カンベエは己の傍らの気配が、ますます剣呑なものになるのを感じた。
「あの子達も可哀想に……私があの子だったら、とうにあの豚の手を刺し貫いているでしょうね」
「物騒なことを言うでない。少々口が過ぎるぞ」
カンベエは先程よりも鋭い口調で、シチロージを諫める。日頃はこの部下の物怖じしない率直な物言いに好感を持っているカンベエだが、さすがに今日は少し度が過ぎている気がした。酔いが回っているのかと訝ってシチロージの顔を見たが、シチロージは酒に酔ってなどおらず、むしろ素面を通り越して冷徹なまでに凍り付いた碧眼で、上座に座る男を睨みつけている。
「おぬし、何ぞあの男に恨みでもあるのか?」
そう思ってしまうほどの鋭い眼差しに狼狽しながら訊ねると、シチロージがはっと目を瞬かせてカンベエを見た。人を刺し殺せそうな眼光が一瞬のうちに消えて、いつもと変わらぬ碧眼が、カンベエの固い表情を映す。
「失礼しました。少々酒が入りすぎたかもしれません」
「シチロージ」
念を押すように副官の名を呼んで、カンベエはシチロージの顔を凝視する。この青年が酒に呑まれていないことが分からぬほど、彼との付き合いは浅くない。カンベエの念押しに、シチロージは口を開かなかった。秀麗な顔が無表情のまま、カンベエを見つめ返してくる。
この年若い部下が、何かを隠しているのは間違いない。だが一体、何を心の内に秘めているのだろうか。シチロージの常ならぬ様子を訝しんでいる間に、座敷の上座から突然、声が聞こえてきた。
「カンベエ、こちらへ来んか」
致し方なく目を向けた方向、男がにたにたと笑いながらカンベエを手招きしている。ようやく男の小言から解放されて立ち上がった中隊長が哀れむようにこちらをちらりとを見て寄越して、カンベエは内心で溜息を吐いた。大した能もない割に、この男は人を小馬鹿にして楽しむ節があるから、今回もそうして色々な小言をぶつけられて憂さ晴らしをされるのだろう。嫌悪感を無愛想な顔の下に隠し、カンベエは立ち上がる。だが、彼を呼んだ男は何故かカンベエを見ようとはせず、その傍らに座すシチロージへと目を向けた。
「そこの『女房』も、共に来い」
思わず皮膚が粟立つような、ねっとりとした声。元々白けていた座敷にその声はよく通って、顔を伏せて食事に没頭していた一同が驚いたようにシチロージを見つめる。すっかり注目を浴びたシチロージはと言うと、奥底まで凍てついた碧眼を、無言で上座の男へと向けていた。
「ヨシミ様」
カンベエは咎めるような目で、ヨシミという名の男を睨む。男の声はただ冗談めかしているとは思えず、寧ろその中にシチロージを蔑むような響きが籠もっていたからだ。そもそも男の態度自体が、命を賭して戦うサムライを呼ぶそれではない。しかし、男はカンベエの様子など気にも介さぬという風に、にやにやと下品な笑みを浮かべ続けている。
「おや、儂はその者がおぬしの女房だと聞き及んでいるが?」
下卑た目線を受け止めたシチロージが一瞬だけ目を伏せ、そして立ち上がった。
カンベエがシチロージを見、シチロージがカンベエを見る。交錯する視線の中、カンベエは若い副官の内に静かな怒りの色を認めた。そして、結局はこの侮辱を受け入れざるを得ないという諦めの色も。事を荒立てるわけにはいかないでしょう――そう言いたげな目をしたシチロージと共に、カンベエは気乗りしない足取りで男の前に座る。その隣に座ったシチロージへ、男が絡み付くような目を向けて、その目を真っ向から受け止め、シチロージが先に口を開いた。
「ご無沙汰しております、ヨシミ様。……先の演習の時以来でしょうか」
日頃の感情豊かな声とは違う、低く抑揚の乏しい声。その奥に見え隠れする怒りの大きさにもカンベエは驚いたが、それよりもシチロージがこの男と面識を得ていたことに驚いた。
一月前に基地で行われた演習に中央からの視察が来ていたのは知っていたが、少なくともカンベエ自身はこの男が来ていたことを知らなかったし、シチロージがその時に男と顔を合わせていたらしいことも知らなかった。比較的上座に近い所に座るノブヒロに一瞬目を向けると、こちらの会話が聞こえているらしい彼も首を横に振っている。直属の上官であるカンベエや中隊長が知らないとなると、どちらかの独断で事が進んだ可能性が高く、そこでカンベエは先程からのシチロージの、男への敵意に満ちた眼差しを思い出していた。この若く優秀な部下と男との間に、一体何があったのだろうか。
男が口元を笑みの形に歪めながら、舐め回すような目でシチロージを見る。その目には異様な輝きを帯びていて、傍から見ているカンベエも不快感を抱くほどだった。侍らされた芸妓達も怯えたような顔をして、心なしか男から距離を取ろうとしている。
「あの時のおぬしらは勝っていたであろう。だが演習でいくら勝とうとも、本番が負け戦ばかりではなあ」
男が徳利を持ち上げたのを見て取ったシチロージが、素早く猪口を差し出す。そこへ男がなみなみと酒を注ぎ始め、勢いよく注がれる酒が猪口から溢れ出しそうになった瞬間、シチロージが氷のような無表情で猪口へと口をつけた。
酒が零れるのも構わず一気に猪口を煽り、色の白い喉をごくりと上下させて杯を乾かす。勢い余って溢れた酒が猪口を伝うのを舌でぺろりと舐め、シチロージは感情の凪いだ眼差しを男に向ける。彼の一連の動作を食い入るように見つめていた男は、にたにたと下品な笑みをシチロージの秀麗な顔へと向ける。
「随分と慣れておるようだのう」
「貧乏性ゆえ、つい癖でして」
「本当にそれだけか? 日頃から女房としてこやつに尽くしておるのだろう?」
男が言い放った言葉の意味が初めは分からず、理解が追いついた瞬間、カンベエは思わず腰を浮かせていた。
「何を言っておられる」
動揺を無表情の下に隠し、シチロージと男との間に割って入ろうとする。今の男の言葉からは、己の副官たるシチロージを侮辱する意図しか感じられなかったからだ。
戦場におけるカンベエとの一心同体ぶりや、平時におけるカンベエへの世話の焼き方から、シチロージは同僚達からカンベエの古女房だと専らの評判だった。その言葉が、シチロージのサムライらしからぬ端正な顔立ちや柔らかな物腰のせいで一人歩きして、体を使って取り入ったなどという誤解を招いたこともあったが、そんな誤解はシチロージの鬼神の如き戦いぶりが瞬く間に吹き飛ばしていった。今の前線部隊に、親愛の情を込めて古女房と呼ぶ者はあっても、侮辱の意味でそう呼ぶ者は誰一人として居ない。誰もがシチロージを、サムライとして優秀だからカンベエに仕えているのだと分かっている。だから男の言葉は全くの言いがかりであり、間違ってもそのような誹謗をシチロージが受ける謂われはなかった。
「ヨシミ様はおぬしと話しているのではないぞ、カンベエ」
男に並んで座っている部下が傲然と言い放ち、カンベエは浮かせた腰を元の位置に落とさざるを得ない。この場における上下関係はあまりにも明確で、この司令部の男に刃向かうことがカンベエ達前線部隊にとって不利にしかならないことは分かっていた。この男もそれを把握しているから、こうして平然とシチロージを侮辱し、嘲笑するのだろう。
当の本人であるシチロージは無表情でその侮蔑を受け入れ、じっと押し黙っている。そんな彼の様子を見ながら、男が両隣に侍らせている芸妓の肩をこれ見よがしに抱き寄せた。年若い芸妓が青褪めた顔をしてぷいと男から目を背けるのも一向に気にせず、粘っこい手つきでその肩を撫でる。
「おぬしもこの者等のように着飾ってみれば、ますます女房らしくなるのであろうな?」
カンベエは一瞬、自分の耳が聞き間違いを起こしたのかと訝った。
「このシチロージに、芸妓の真似事をせよと?」
激情が全て押し潰されて平坦になったシチロージの声が、淡々と問う。その言葉に、カンベエは自分もまた同じ言葉を聞いたのだと確信し、そして己の内側から怒りが一気に込み上げるのを感じた。
男の挙動一つ一つから、シチロージに恥を晒させようとする魂胆が透けて見えている。シチロージは全身から押し殺した怒りを滲ませているし、カンベエの背後、この場に集う前線部隊の一同にふつふつとした怒りが沸き起こるのも感じ取れた。カンベエとて、もし自分が佩刀していれば、すぐにでも刀を抜いていたかもしれないと思うほどには怒りを堪えきれないでいる。だが残念ながら、今の自分は丸腰の状態だった。この男は宴席では必ず、自分の部下にのみ佩刀させて、前線部隊の側には佩刀を許さない。それは男の小心さをよく表しているが、彼等が傲慢な態度を取り続けられる所以でもあった。
「芸妓とは奇異なことを言う。儂はただ、女房らしく着飾ってみるのはどうかと言ったまでよ」
実際、男はカンベエやシチロージの怒りなどまるで意にも介さず、女の肩を撫でながら追い打ちをかけるようなことを平然と口にする。こちらが何もできないことを分かった上で、シチロージの矜持を踏み躙ろうとしているのだ。いくらなんでも、さすがにカンベエの怒りも限界に近付いていた。戦場で敵を見るときのような鋭い目つきで男を睨み、低く唸るような声を出す。
「ヨシミ様――」
「カンベエ様」
そんなカンベエの目の前に、六花の彫られた白い手がすっと翳された。
一気に毒気を抜かれたカンベエは拍子抜けしてシチロージを見た。シチロージがカンベエを見つめ返す。感情を押し殺した空色の瞳の中には、寒気を覚えさせる冷たい光が轟々と渦を巻いていたが、カンベエに向いた目が一度瞬きをしたかと思うと、その中で煮えていた怒りは瞬時に消え失せ、白皙の顔が、男に向かってへらりと軽薄な、本心の読めない笑顔を作る。
「ヨシミ様たってのご希望とあらば、致し方ありません」
シチロージの言葉を聞いた男の不気味な笑顔は、傍らに座すカンベエでさえも鳥肌が立つほどだった。それを洒脱な笑顔で受け流し、シチロージは男と、その周りに侍らされた二人の女とを見比べる。
「そこのお二人をお借りできませんか? 私一人では、少々準備に骨が折れますゆえ」
「承知した。ほれ、おぬしらも行くが良い」
あからさまにほっとした顔になった芸妓二人が、シチロージに伴われて座敷を出て行く。カンベエは声をかけることも、まして引き留めることもできないまま、己の副官の背中を見送るしかない。
襖を開けたシチロージが最後に座敷を振り返って、カンベエと視線を交錯させた。その空色の双眸は不思議なほど穏やかに凪いでいて、カンベエにさえも腹の内を読ませない。にこりと小さく微笑んで、シチロージが襖をぱたりと閉め、その姿が見えなくなる。一人、男の前に取り残されたカンベエは、シチロージの唐突な振る舞いに呆然としていたが、その動揺を素早く押し殺すと、怒りを押し殺した目を男に向けた。だが男は不気味に笑いながら、カンベエへと徳利を差し出してくる。
「まだ杯が空いておらんではないか。飲め」
カンベエは猪口に残っていた酒を一気に飲み干した。喉を熱い液体が流れ落ちていくが、カンベエの中で煮え滾る怒りは一分の酔いも受け付けない。握った猪口をぐいと突き出せば、その内に酒がなみなみと注がれる。目の前の男を睨みつけながら、またその酒を飲み干す。
「此度の振る舞い、少々度が過ぎるのでは」
地を這うような声が、酒で多少滑らかになった口をついて出る。カンベエは己の内の怒りを制御することができなかった。大切な部下を侮辱する男と、それを止められなかった自分自身への怒りが、カンベエの心をちりちりと焦がす。
元々白け切った座敷は今や水を打ったように静まり返り、全員が固唾を呑んでカンベエの動向を見守っている。そもそもカンベエとシチロージが男の前へ呼びつけられたときから――男がシチロージを侮辱し始めたときから、この宴席は誰も物音一つ立てていない有様だった。皆、シチロージが受けた仕打ちを目の当たりにしていて、それに対して怒っているからこそ、今や一人で矢面に立たされているカンベエの出方をじっと伺っているのだ。
「分を弁えよ、カンベエ」
カンベエの身から滲む殺気めいた怒りを察知したらしい腰巾着が、浮き足立ったように怒鳴る。そんな部下を余裕ぶった仕草で制しながら、男はカンベエの猪口にまた酒を注いでいく。
「気にするでない。どうせ吼えることしかできぬ負け犬じゃ」
嘲るように言って、男が座敷に集う面々をぐるりと見渡す。カンベエだけでなく、この場に集うサムライ全員を見下していることが明らかな顔だった。下座に座る面々が怒りを募らせる気配が、寒々とした座敷全体に満ちる。だが高を括っているらしい男はその空気をまるで気にした風もなく、カンベエへと徳利を差し出し、強引に酒を注いでいく。大して味わいもせず一気に煽っては、また酒を注がれての繰り返し。体の中が熱くなるのとは裏腹に頭は奇妙なほどに冷え切っていて、カンベエは怒りも露わに相対する男を睨みつけた。男は相も変わらず余裕ぶった笑みを浮かべ、逆らう術のない哀れな獲物を甚振るように見据えている。
「余程あの女房に入れ込んでいると見えるのう」
「あの者は優秀な部下だ。だが儂は、あの者に入れ込んでなどおらぬ」
「では何故、おぬしは戦に勝てんのだ?」
どうせ「女房」に現を抜かしているのだろう、という誹謗を受けることが容易く想像ができて、カンベエの忍耐もそろそろ限界を迎え始めていた。
「人も備えも碌に補充されぬ戦では、勝てるわけがない」
押し殺した声で低く言えば、目の前の男が笑みを消し、一転して憎らしげな目をカンベエへと向ける。前線部隊がいくら要望を出そうともなかなか人員や物資を工面しない司令部を、ひいてはそこに籍を置く男を責める意図は、どうやらはっきりと伝わったらしい。
「生意気なことを抜かしよって、負け犬風情が」
カンベエの反論が思いの外堪えたのか、男はカンベエへの苛立ちを隠そうともせず、神経質そうにぶるぶると口元を震わせる。傍らの部下二人が腰の刀に手を添えるのを見て取って、いざとなれば素手でやり合う覚悟さえも決めながら、カンベエは男を睨み返した。だがそこで男は何を思ったのか、不意に苛立った目を下品な笑みの中に引っ込ませた。にやにやとした不快な笑みを脂ぎった顔に浮かべ、余裕めいた目でカンベエを見据える。
「いずれにせよ、おぬしが女房に現を抜かし、戦に身が入らぬことに相違はないだろう」
「だから、現を抜かしてなど」
「カンベエ」
カンベエの言葉を遮り、男が身を乗り出す。カンベエを見る目には、禍々しい光が宿っていた。
「おぬしの下にあれを置いておくのは惜しい。儂があれを使ってやろうぞ」
――今、何と言った?
空気が凍り付いたような一瞬の間。ほんの少し遅れてその言葉を理解してからも、カンベエは衝撃のあまり二の句が継げなかった。この男は、カンベエの副官であるシチロージを己の手中に収めたがっている。あれだけ彼を侮辱し、蔑んでおいて、どういう風の吹き回しなのだろう。
呆気に取られたカンベエの隣に、静かな足音が近付く。この場に集う前線部隊を束ねる中隊長のノブヒロがカンベエの傍らに歩み寄って、静かな非難の目を男へと向けた。
「失礼を承知で申し上げますが、いかなヨシミ様と言えど、それ以上はお止め頂きたい」
「ふん、負け犬が何匹吼えたところで痛くも痒くもないわ」
ノブヒロを見た男が開き直るように傲然と言い放ち、ぶよぶよに膨れた腹を震わせて笑う。それから絶句しているカンベエへと向き直り、まだ半分ほど酒が残った猪口へ強引に酒を注ぐ。この男は最初から、カンベエ達の意見を聞くつもりなどないのだ。彼にとってはシチロージの引き抜きなど、この宴席に来た時点でとっくに既成事実だということかもしれない。
「ただ、あれがおぬしらのような負け犬と群れるのが哀れでのう。儂の下に来れば、あれの将来は約束されたも同然よ。負け戦ばかりのおぬしと添い遂げるより、よほど幸せだろう」
爆発寸前まで昂っていた激情が、その言葉を聞いた瞬間、すっと凪いだ。
反論の言葉が出てこなかった。反論できないと思ってしまったのだ。原因が己ばかりにないにせよ、カンベエが率いる部隊が負け戦ばかり続けているのは事実で、いつ命を落とすともしれない自分の部隊に、若く有能なシチロージを留める意味が果たしてあるのかと、一瞬でも疑問を抱いてしまった。
カンベエは、目の前で下品な笑みを浮かべている男を見る。体も碌に鍛えず、他人を見下して憂さを晴らす男など、とてもサムライと呼べたものではないが、少なくともこの男は中央の司令部に所属していて、カンベエよりは余程上の立場に居る。そんな男に引き抜かれ中央へと赴いた方が、或いはシチロージの持つ能力を活かせるのではないか。彼の未来を思えばこそ、カンベエは言葉に窮し、手の中の猪口を握り締めることしかできなかった。
「あれを儂に寄越せ、カンベエ」
そんなカンベエの葛藤を感じたのだろう、男が意地の悪い笑顔をカンベエに近付け、ねっとりと囁く。
「あれの幸せを願うのであればこそ、悪い話ではあるまいて」
そう言われた瞬間、古女房と呼ばれる年下の副官の、屈託のない笑顔がカンベエの脳裏を過ぎった。
シチロージがカンベエの下に配属されてからというもの、彼はカンベエの部下として常に尽力し続けている。天賦の才に加え、彼自身の並々ならぬ努力の結果、彼は若くしてカンベエの副官となり、公私を問わずカンベエを支える存在となっていた。カンベエにとってシチロージは、己を敬い慕う良き部下であり、同時に背を預けて戦える良き戦友でもある。そしてその立場を望んだのは、他ならぬシチロージ自身だったのだ。
シチロージは、カンベエの下で自らの力を振るうことに喜びを感じている。それは疑いようのない事実だと思っているが、それが本当にシチロージの為になるのかと言われると、カンベエは答えられない。カンベエの存在が、あの若く有望な青年から未来を奪っているに過ぎないのではないだろうか。そう考え始めると、カンベエは男に返す言葉を見つけられなくなっていた。
「……、」
シチロージを手放したくないと思う一方で、その未来を自分が閉ざしている可能性に思い至り、カンベエは唇を噛む。そんなカンベエに尚も男が言い募ろうとしたとき、すっと襖が開く音がした。