開いた目に真っ先に飛び込んできたのは、明るく青い空だった。
「……、」
唐突に視界を染める眩しさに、カンベエは思わず目を閉じた。肩の辺りに掛かっていた薄い布団を頬が隠れるまで引き上げて、それからそろそろと瞼を持ち上げる。布団を二人分敷き詰めれば埋まってしまうような小さな部屋。長屋の二階にあるこの部屋の、肘掛け窓に面した障子が人ひとり分の幅に開いていて、そこから軒先に切り取られるように青い空が小さく覗いていた。
布団の中で、身動ぎを一つ。春の訪れを感じるほのかに暖かな風が、さらりと部屋に流れ込む。その風に混じって、何処からか、朝餉の支度の匂いがする。朝を迎えて次第に目覚めつつある街の、さざ波のような喧騒も。そして、そのざわつくような音に乗って、低く、唄う声が聞こえてくる。
カンベエはゆっくりと、上体を起こした。昨夜の営みの名残で軋む体に少し顔を顰めながら視線を向けた肘掛け窓の、障子の開いている間に、藤色の羽織を纏った背中がある。春風を孕んで柔らかに揺れる羽織は肩の部分が半分ほどずり落ちて、覗いた色白の背中に金糸の髪が垂れ、春の陽射しを浴びてきらきらと輝いている。階下の街を眺めているその後ろ姿が、誰に聞かせるでもなく、小さく、低く唄っているのだった。
――諦めましたよ どう諦めた 諦めきれぬと 諦めた……
「巧いものだな」
控えめながらも朗々とした声の都々逸に、思わず漏れた呟きは低く掠れていた。夜の間、堪えきれずに喘ぎ続けた喉は、朝になっても僅かに引き攣れるような感覚が残っている。そんな声でもしっかりと届いたのだろう、シチロージが部屋の中を振り返り、カンベエが布団の上に腰を下ろしているのを見て困ったような顔をした。
「起こしてしまいましたか」
「いや。起きたら、おぬしの声が聞こえた」
「それは失礼しました」
「そんなことはない。……知らぬ都々逸だ」
「色街のおなごがこぞって唄うもので、すっかり覚えちまいまして」
顔だけをカンベエに向けて振り返ったシチロージが、そう言って人好きのする笑みを浮かべた。
カンベエはそんな男の姿をまじまじと眺める。海のような輝きを湛えた碧眼も、春の風にさらさらと流れる金糸の髪も、穏やかな陽光の中で淡く輪郭が輝いて、役者だと言われても納得できるほどの秀麗な容姿だった。けれどもずり落ちた羽織の下から顕わに覗く色の白い体は、肩や背の筋肉が無駄なく引き締まっていて、その肌のあちこちに大小様々な古傷が刻み込まれている。サムライという生き方を選ばずとも十分に生きていく道があっただろう美丈夫の、サムライと呼ぶに相応しい体。出会った頃から傷の数こそ増えたが、まるで衰えを知らないその体をじっと見つめていると、カンベエの視線に気付いたらしいシチロージが、その碧眼を悪戯っぽく輝かせる。
「おや、ひょっとしてアタシに見惚れてました?」
十年前とは違う太鼓持ちの口調と、十年前から変わらぬ人懐っこい笑顔が、カンベエの目の前で混ざり合う。
「そうかもしれん」
その笑みに向かって率直な返事をすると、シチロージが意外そうに目を丸く見開いた。
「珍しいですね、カンベエ様がそんなことを仰るなんて」
「おぬし、儂を何だと思っておる」
シチロージの言い草に、心外だとばかりに憮然とした顔を作れば、「参りましたね」と呟きながら頬を掻いたシチロージが、ずり落ちていた羽織を肩に掛け直す。そのまま目を逸らすように外へと向き直ったシチロージの金の髪が、そよりと吹く風に優しく揺れる。
「カンベエ様にそう言われると、どうにも照れて困るんですよ」
「儂は嘘は吐いておらぬ」
「そういうところですってば」
カンベエに背を向けたまま、シチロージが溜息を吐く。その物憂げな後ろ姿さえも絵になっていて、綺麗なものだ、とカンベエは思った。勿体ない、とも。
「……サムライに戻らずとも、おぬしは生きていけたであろうに」
同性の目から見ても美しいと思う男が、一度は止めたはずのサムライに戻って、そしてまた傷を増やしていく。先程まで覗いていた左腕の傷にしても、都との戦に参加しなければ増えることはなかった。それを勿体ないと思うのはカンベエの勝手なのだろうが、それでもやはり、そんな思いが浮かんで、気付けばカンベエはそう、口にしていた。
「疾うに、諦めましたよ」
シチロージが振り返ることなく、そう呟く。直した羽織が春風を孕み、柔らかな金の髪と共にふわりと揺れる。
「サムライを止めることをか」
「諦めることをです」
――諦めきれぬと、諦めた……
何を、とは言わなかったが、それで伝わらないほど、彼等の関係は浅くはなかった。
カンベエは乱れた寝間着姿のまま立ち上がる。体のあちこちが痛むのは、シチロージが諦めることを諦めた想いの証だ。今も昔も何一つ変わらず、加減も知らずにカンベエを求める男。未だ変わらぬ想いの強さに呆れる気持ちもあるが、それだけこの男に愛されているということが面映ゆくもある。
障子を少し開けて、シチロージの隣に腰を下ろす。階下の街を見るともなしに見ている端麗な横顔。軒先から覗く青い空よりももっと深い碧を湛えた眼差しが、カンベエの方をちらりと見た。
「儂も、諦められる気がせぬ」
再び出会ったとき、幾ら食い下がられようとも突き放せば良かったのかもしれない。そうすればきっと、この男はサムライを止め続けることができていた。けれどもカンベエにはそれができなかった。勿体ないなどと言いながら、カンベエとて結局、シチロージを諦められなかったのだ。
カンベエの言葉に、シチロージが小さく笑う。空へと目線を戻したシチロージが隣に座ったカンベエの肩へ当然のように頭を凭れさせるから、カンベエも何も言うことなく、シチロージの肩へと手を回した。
「なら、諦めなくて良いじゃないですか」
「おぬしもな」
「良いですね。似た者同士だ」
――どうせ互いの身は錆び刀 切るに切られぬ腐れ縁……
春の風に乗せて、シチロージがまた都々逸を口にする。低く静かな声が風に溶け、流れていく。心地良い声に耳を傾けながら、カンベエはシチロージの横顔へと目線を落とす。サムライとして生きるには勿体ない顔立ちだが、その顔がサムライの猛々しさを見せる瞬間を、カンベエは幾度となく目にしてきた。
「また、随分な唄だ」
「刀だなんて、サムライらしい唄でしょう」
「儂の刀は未だ、錆びておらぬ」
「ええ。……錆びてもらっちゃ、困ります」
言いながら、シチロージがカンベエへと再び向き直る。軽口を叩くその口調とは裏腹に、カンベエを見つめる眼差しは真剣そのものだった。
サムライを止めることも、想いを捨てることも、全てを諦めた男の目。その碧眼の強く美しい光に、見惚れてしまったのは今日が初めてではない。だからこそ、こうして共に生きて、共に呼吸して、共に歩み続けるのだ。
「分かっておる」
静かにそう告げて、シチロージの肩を抱く手に力を込める。優しく吹く春の風が二人の髪を揺らす中、カンベエはシチロージと同じ景色を、共に見つめ続けていた。