挽き潰されるような重い衝撃と共に、シチロージは叩き折られた斬艦刀ごと、敵の本丸へと激突した。
「ぐ、ぅ……!」
全身の骨が軋む。肺腑が押し潰され、口からごぼ、と血の混じった息が溢れた。頭の中が回るように揺れている。恐らく激突の瞬間にどこかへ打ち付けたのだろう。額が裂けて熱い血が流れ落ち、片目の視界が赤く染まっていく。
姿勢を保とうと手足に力を込めたとき、シチロージは左手の感覚が、肘から先で消えていることに気が付いた。素早く視線を走らせ、潰れた機械に肘から下が挟まれているのを視認すると、動く右手を使って機械の壁を捻じ開け、左腕を引き摺り出す。飛び出ている部品で腕がずたずたに裂け、傷口から血が滴り落ちたが、痛みを感じることは無かった。最早、痛みを感じる神経さえも切れてしまったのだろう。訓練で教わった通りに止血帯を肩のすぐ下に巻き、きつく締め付ける。この腕がもう使い物にならないのは、シチロージの目にも明らかだ。だが体が動く限り、まだ戦える。操縦席の傍らに備えた仕込み槍を右手で握り締め、拉げたコクピットを抉じ開けて、必死に抜け出そうとする。
「おのれぇっ」
本丸を食い破られた怒りに狂った雷電が、シチロージの頭上で斬艦刀を振り上げる。その直後、一陣の風のごとき鋭い斬撃が走り、雷電は手にしていた斬艦刀ごと真横に一刀両断された。真っ二つに斬られた胴体の上の部分が鈍い音を立てて滑り落ち、その向こう側、シチロージと同じ深緑色の軍服を纏った男が軽やかに宙を舞い、もう一体の雷電へと斬りかかるのが、血で赤く染まる視界の中で鮮やかにシチロージの目に映る。
何よりも静謐で、誰よりも激しい刀捌きを目の当たりにして、シチロージの右手に力が漲る。――一秒でも早く、助太刀しなければ。槍の石突を操縦席の側壁に押し付け、右手一つの力で歪みを抉じ開ける。隙間が広がった瞬間、体を縛り付けていた圧迫感が消えて、シチロージの体は本丸の中へと勢いよく転がり出ていた。
敵が一人増えたことに気付いた雷電がこちらへ向けて斬艦刀を振りかぶったが、その動きはシチロージからすればあまりにも緩慢だった。右手に込める超振動、仕込み槍が勢いよく伸び、その刃先が雷電の胸を貫く。急所を正確無比に貫かれ、一瞬のうちに機能を停止させる雷電を後目に、シチロージは敵中へ斬り込んでいく背中を追おうと、一歩、足を踏み出しかけた。
「カンベエ様!」
あの人の背中を、どうあっても守らなければ。その一心で前へ踏み込んだ足は、しかし力がまるで入らずにぐらりとよろけた。何故、と咄嗟に見下ろした足首が、有り得ない方向に捻じ曲がっている。衝突の衝撃で折れたのであろう、赤く濡れた白い骨の先端が、足首から皮膚を突き破り飛び出していた。
その光景を目の当たりにした瞬間、初めて現実を認識した脳が激痛を自覚し、シチロージは悲鳴を上げながら槍を支えに蹲る。全身から吹き出す脂汗。行かなければ、心はそう逸るものの、吐き気を催すほどの痛みに苛まれる足は最早、一歩もそこから動けない。
「シチロージ!」
自分の名を叫ぶ馴染んだ声が聞こえて、弾かれたようにシチロージは顔を上げた。
刀を手にした男が振り返り、蹲るシチロージを見る。驚愕に見開かれた目と視線がぶつかって、けれどもその目に違和感を覚えたシチロージは呆然と男の姿を見返した。こんな姿は、知らない。この男は常に前を向いて戦い、決して振り返ることなどなかったはずだ。シチロージは、この男を振り返らせてはいけなかったはずだ。何故だ。いけない。駄目だ。頭の中で警告が鳴り響く。前を向いてくれ。自分のことなど、捨て置いて。
「貴様ァッ!」
そして案の定、男に生まれた隙を敵は見逃さなかった。
こちらを振り返った男の向こう側、飛び込んできた雷電が巨大な斬艦刀を煌めかせ、何の迷いもなく振り下ろす。シチロージは叫ぼうとした。けれども間に合わなかった。殺気を感じた男が雷電へと目を向けたときには既に、その刃は男のすぐ頭上にあった。シチロージは足の痛みも忘れて、目の前の光景を見つめることしかできない。何故だ。何故、こんなことが起きるのだ。こんなことは有り得ない。どうして、こんなことに。
脳天に振り下ろされた斬艦刀が、人が受け止めるには大きすぎる刃が、男を真っ二つに叩き斬る。ぐしゃ、と湿った音。臓物が、血が、辺り一面にぶちまけられて、雷電の持つ斬艦刀が赤黒く染まる。
「カンベエ様ーッ!!」
喉が裂けそうなほどの声で誰よりも敬愛する男の名を叫んでも、何もかもが手遅れだった。絶望に、朱塗りの槍が右手から転がり落ちていく。血濡れの斬艦刀が自分へと向けられていることに気付いたが、シチロージには動けるだけの体力も、そして気力も残っていなかった。
* * *
――……ロージ。シチロージ!
「っ!!」
己の名を呼ばれ、シチロージは目を見開いた。
視界に広がる一面の闇。ばくばくと、心臓が早鐘を打っている。全身がびっしょりと汗で濡れていた。縋るように、藻掻くように動かした右手が何かを掴んで、それが何かも分からないまま、無我夢中で握り締める。
「シチロージ」
聞き慣れた声に名を呼ばれ、シチロージはからからに渇いた口で、は、は、と喘ぐような呼吸をしながら、見開いた目を声のした方向に向ける。よく見れば暗闇には月の光が薄く差し込んでいて、自分の頭上に古い天井の木目が広がっているのが分かる。そして自分の顔を覗き込む、男の顔。長く垂れた髪で表情に影が差していたが、それは間違いなく、シチロージがよく見知った男の顔だった。
「カンベエ、さま……」
早い呼吸の合間に絞り出した声は小さく、かさかさに掠れていた。それでもその声を聞いて安心したのか、カンベエの険しい目元がほんの少し緩む。汗の滲んだ手をぐっと握り返す掌の温かな感触に、そこでようやくシチロージは、自分の右手がカンベエの左手を握り締めているのだと気が付いて、思わず指先の力を緩めた。何なのかも分からず、爪を立てるほどの勢いで力を込めていたからだ。
だが、カンベエは表情を変えることなく、シチロージの手を静かに握り返し続けている。カンベエの顔を見上げ、どうにか息を吸い込んだ喉が、ひゅうと引き攣れたような音を立てた。――叩き斬られ、肉片と化したはずの人が、生きてシチロージの顔を覗き込んでいる。何よりも、シチロージを見つめるカンベエの眼差しはいつもと同じで、あのときのような違和感を覚えない。
混乱に掻き回されていた頭が次第に冷えていき、シチロージは己が抱いた違和感の正体に思い当たった。そもそもシチロージは、あんな場面を見たことがないのだ。世界がまだ大戦に明け暮れていた頃、二人で最後に空を駆け抜け、そして堕ちた、あの日の記憶の断片。その中に、あのような場面は存在していないはずなのだ。
「悪い夢でも見たのか、おぬし」
「は……、」
「随分と魘されておった」
夢、という言葉がすとんと胸に嵌り込んで、シチロージは胸に閊えた何かを吐き出すように溜息を吐き、力なく目を閉じる。そう、記憶にないはずの記憶など、正しく悪夢に他ならなかった。
シチロージの額に、骨ばった手が触れる。目を開けると、カンベエの右手が汗で額に貼り付いたシチロージの髪を梳いているところだった。心臓は未だばくばくと打ち続けていて、握り締めたカンベエの手を離すことができない。そんなシチロージに己の左手を預けたまま、カンベエはシチロージの額を撫で続けている。深い黒灰色の眼差しは穏やかにシチロージを見つめているが、その内にはごく僅かに心配の色が浮かんでいた。
シチロージは金属の左手を支えに、体をゆっくりと起こす。あの悪夢はあらゆる細部が現実味を欠いていたが、あの戦いで左手が駄目になったのは事実だ。血の巡らない義手になった左手を震わせながら、傍らに座しているカンベエの肩に回して抱き寄せ、その引き締まった胸板に顔を埋める。とく、とく、と聞こえてくる、静かな鼓動の音。カンベエが生きているという他ならぬ証を、まるで幼子のように感じて、ようやくシチロージは安堵することができた。
「空から堕ちた日の、夢を」
カンベエの鼓動に耳を澄ませながらぽつりと呟けば、僅かにカンベエの体が強張った。その反応が、カンベエがシチロージの言葉を理解したという何よりの証拠だった。
シチロージがあの日の夢を見るのは、これが初めてではない。冬眠から覚めて間もない頃など、それこそ毎晩のように夢を見ては魘され飛び起きて、蛍屋の者に心配された。シチロージ自身、あの日の記憶が曖昧なため、夢の展開はいつも少しずつ異なるのだが、大抵の場合、夢の中でシチロージはカンベエの死を目の当たりにする。その場面はいつもあまりに克明なせいで、実際にカンベエの死に目を見た明確な記憶がないはずのシチロージも、当時はその内のいずれかが真実なのかもしれないと思っていた。
「それはさぞや、辛かろう」
シチロージの手の震えが伝わるのか、カンベエがまるで子供をあやすようにシチロージの背中を撫でる。その大きな手の温かさが、胸から響く鼓動が、カンベエが生きているということをシチロージに伝えてくれる。だから今は、あれが夢だと断言できた。あんなものは幻想で、カンベエは今、ここに生きている。シチロージはそう己に言い聞かせながら、カンベエに縋り付く。そうでもしなければ、残酷な夢の幻に呑み込まれそうだったから。
「あの日の夢の最後で、いつもあなたが死ぬんです」
「……そうか」
「あなたとまた出会って……こんな夢、もう見ないと思っていたのに……」
あの日離れ離れになり、死んだと思っていた人と、シチロージは十年という時を経て再び出会った。再び槍を手に取り、再び共に戦い、そしてまた生き残ったシチロージは、戦が終わった後も再びサムライとしてカンベエと共に生きる道を選んだ。
シチロージは今度こそ、離れたくなかったのだ。目が覚めてからの五年間、夢の中で幾度となくカンベエとの離別に苦しみ続けた。だからもう、二度と味わいたくなかった。それなのに、再び傍らへ戻ったはずの相手の、見たこともない死の風景を夢に見てしまった。たとえ夢だと分かっていても、あまりにも恐ろしく、絶望的な光景だった。あの瞬間に飛び散る赤い鮮血を思い出すだけで震えが止まらなくなり、シチロージは縋り付くように腕を回して、カンベエの存在を、その輪郭を確かめるように力を込める。
「シチロージ」
低い声が己の名を呼ぶのを幾度となく聞いてきたが、今日のそれは一際穏やかで温かかった。少し力の抜けたシチロージの手の中から、カンベエの手が離れる。よすがを失ったような心持ちになって思わず顔を上げたシチロージの頬を、カンベエの両手が優しく包んだ。
結わずに下ろしたシチロージの金糸の髪を、無骨な指が撫でる。見つめ合うカンベエの静かな眼差し。その深い色の双眸の内に浮かんだ、確かな愛情。それが分かるのは自分だからだと、自惚れても許されるだろうか。
「儂は生きておる」
「っ、」
「おぬしも、生きている」
穏やかな声は確かな響きとなって夜の闇を揺らし、シチロージの心は小石の投げ込まれた水面のように波打った。波が静まるにつれ、カンベエの言葉が、次第に心の中へ染み渡っていく。生きている。間違いなく、二人とも。唇が震えて、泣き出しそうな声で、シチロージは道に迷った子供のようにカンベエの名を呼んだ。
「カンベエ様……」
じわりと滲む視界の中、カンベエがほんの微かに笑みを浮かべるのが見えた。彼の人があまり見せることのない、穏やかな笑顔。その顔が次第に近付いて、シチロージの唇に少しかさついた感触が当たり、そして離れた。
シチロージはカンベエの唇を追いかけるように身を乗り出し、もう一度、啄むような口付けを交わす。解けた手をカンベエの頭に回して抱き寄せ、合わせた唇の隙間を舌でなぞる。微かに目を細めるカンベエはシチロージを拒まず、受け入れるように薄く口を開いた。その中へ舌を差し込み、舌先で緩やかに歯列を辿る。頬を包むカンベエの手に力が入り、重なる顔の角度が変わって、ますます深くへ入り込んだ舌同士が絡み合う。唾液の混ざる、湿った水音。その音に煽られ、貪るように唇を重ね合う。
好い加減に息も続かぬかという頃になって、ようやく惜しむように舌が解ける。互いに呼吸を乱しながら、どちらからともなく、こつ、と額をぶつけた。至近距離で交わる視線。互いの瞳は、互いの顔だけを映して揺れている。
夜は、どこまでも静かだった。どこかで蛙の鳴く声が聞こえる。それ以外に聞こえるのは、互いの呼吸の音だけ。
「また、欲しがっても……良いですか」
ぽつりと零れた声は、明らかに震えていた。
十年前も情を交わす仲だったカンベエと、再び枕を交わしたのは彼と共に生きると決めてからだった。それからというもの、時折そうした行為に耽る夜を過ごすようになったが、行く当ても、行き着く先もない旅路を選んだ二人が、求め合える夜などそう多くもなく。今宵はたまたま、請け負った仕事の都合で、小さな空き家に身を寄せることができた。だからその後のことはもう、言わずもがな、だ。
どちらから手を伸ばしたか、はっきりとは覚えていない。けれども伸ばした手を拒まなかったのだから、どちらからでも同じことだった。貪って、慈しんで、愛し合って。満ち足りた気持ちのまま、静まり返る夜の中で眠りに落ちたはずだった。あんな夢にさえ、魘されなければ。
己の身勝手さに歯噛みしつつも、シチロージはどうしても、カンベエが生きているということを実感したいという気持ちを押し殺せなくなっていた。眠りに就く前には感じられていたはずの男の存在が、今や酷く曖昧になっている。だから己の全てで、目の前の男の存在を感じたかったのだ。
だが一方で、この期に及んでまたカンベエを求めるのも不粋だという気がして、それが最後の一押しをシチロージに躊躇わせている。二度目はカンベエに拒絶されるかもしれない、という不安も心のどこかでちらつくのだろう。自然とシチロージの視線が泳いで、カンベエの眼差しから逃げるように俯く。そんなシチロージを見つめていたカンベエの気配がふと和らいで、付き合いの長いシチロージには彼が笑ったのだと分かった。
「今のおぬしの顔を見れば、嫌とは言えぬ」
優しい声音に、涙が溢れそうになる。それを気取られたくなくて、俯いたまま、なるべく平坦な声を出す。
「……私、そんなに酷い顔をしていますか」
「儂が拒めば、さぞや酷い顔になりそうだと思ってな」
カンベエにしては珍しい軽口。きっとシチロージが泣き出しそうなことも分かった上で、気を紛らわせようとしてくれているのだろう。愛しい人からの気遣いに一抹の気恥ずかしさを覚えながら、けれどもカンベエからの確かな言質を取ったシチロージは遠慮なく流される方を選んだ。
カンベエの着物の袷に手を入れ、開けさせる。簡素な寝間着一枚は容易く肩から滑り落ちて、逞しく引き締まった体が露わになった。その胸元に残る一際大きな古傷の上、先程の行為で残したばかりの口付けの痕に唇を寄せ、上書きするように強く吸い上げる。
「っく、」
ぴくりと肩が跳ねて、僅かに力の強くなったカンベエの手が、シチロージの首筋を伝う。さらりと髪を掻き分け、うなじを辿る無骨な指の感覚。ぞくぞくと身を震わせながら、シチロージは浅黒い肌に赤く咲いた痕へともう一度、触れるだけの口付けを落とした。
胸元を掴むシチロージの手が押し倒したか、首を撫でるカンベエの手に引き摺り込まれたか、最早分からないまま、薄い布団の上に縺れ込む。自然とカンベエを組み敷く体勢になったシチロージは、誰よりも愛しくて止まない男の、頬に薄く赤みの差した顔を見下ろした。小さく微笑んだカンベエの手にうなじを引き寄せられ、唇同士が触れ合う。カンベエの舌に唇をなぞられ、求められるままに舌を絡ませて応えながら、右手をカンベエの下帯の中に滑り込ませ、シチロージを受け入れてからまだ幾許も経たない菊座に、ゆっくりと指を一本、押し込んでいく。
「ン、っ」
合わせた唇の隙間から、微かに漏れる声。今宵の交わりで解れた其処はしっかりと清められていたが、その余韻を残して未だ熱く熟れていた。押し込んだ指を、ぐるりと回す。熱くぬるついた粘膜が指に絡み付き、カンベエの手がますます強くシチロージを引き寄せる。舌の絡まる音か、或いは濡れた蕾が立てる音なのか、湿った水音がくちゅくちゅと夜闇に響いて、その淫らな音に劣情が駆り立てられ、燃え盛る。己の芯がじんじんと熱を持ち始めるのを感じながら、シチロージは舌を解いて口を離し、己を受け入れるカンベエの、潤んだ目と視線を合わせた。
「カンベエ様」
「シチ、ロージ……」
荒い呼吸の合間、カンベエの掠れた声が、シチロージの名を呼ぶ。艶っぽい声に息を呑む間もなく抱き寄せられ、シチロージの色の白い肩口を、カンベエの舌が這う。先刻カンベエが歯を立てていた痕を舌が撫でて、ぞくりと込み上げる不埒な熱に、シチロージの呼吸が乱れる。
体が、心が、カンベエを求めて荒れ狂っている。煽られ、昂った慾は早くも限界を迎えていた。最後に慣らすように一度だけ掻き回した指を、引き抜く。己の下帯を解き、びくりと震えるカンベエの体を押さえつけてその下帯をやや乱雑に剥ぎ取ってから、足をぐいと開かせ、いきり立つ怒張を押し当てた。
菊座に触れる熱さを感じたのが、カンベエが身を強張らせる。シチロージは己の唇を舐めると、その鍛え抜かれた体へ愛おしむように手を伸ばし、逞しい腰をぐっと掴む。
「力、抜いてください」
「シチっ、あ、くぅ……ッ!」
己の熱の切っ先で、カンベエの内側を抉じ開ける。同じ夜に一度シチロージを受け入れていたとはいえ、そもそも男を受け入れる場所ではない其処はシチロージの怒張をぎちりと締め付け、侵入を拒もうとする。縋り付くカンベエの手に力が入り、シチロージの背に指先が食い込む。爪を立てられる痛みさえもカンベエの存在を感じるよすがになって、自分の中の何もかもがこの男に埋め尽くされる。シチロージは一度、大きく息を吐き出した。そうでもしなければ、衝動を抑えられそうになかったから。
「食い千切る、おつもり、ですか」
「ぁ、おぬしが、急くから……っ」
「余裕なんて……ありません、から」
今も、昔も、カンベエを抱くときに余裕なんて一度たりとも持てたことがないのだ。シチロージの偽らざる本音に、カンベエが汗の浮かぶ顔で薄っすらと微笑む。ほんの少し体の力が緩んで、シチロージはその隙をつくように、灼熱をカンベエの奥まで突き入れた。束の間浮かんだ微笑みは堪えるような表情に変わって、カンベエが体を仰け反らせ、シチロージを強く強く抱き締める。
「あァ、シ……チっ、ぅうッ」
「ふ、ァ、カンベエ、さま……っ」
真新しい歯形の残る肩に噛み付かれる。駆け抜ける鈍い痛みは却ってシチロージの興奮を煽り、シチロージは熱に憑かれたように腰を動かし、カンベエの奥を抉る。
慾をみしりと締め付けられ、体をしかと抱き締められて、密着する胸から心臓の鼓動が、熱い体温が伝わってくる。シチロージは左手をカンベエの背中に回し、その逞しい体を抱き締めた。血は流れていなくとも、カンベエの体温を感じることのできる手。その手でカンベエを必死に捕らえ、息を乱しながら、血の通った己の右手をカンベエのいきり立つ怒張に添わせ、ぬる、と扱き上げる。
「ア、ぁっ、」
敏感な箇所を直接撫でられ、カンベエの体が大きく跳ねる。シチロージの肩から口が離れて、二人の視線が再び絡み合った。離れてから片時も忘れたことのない人と、目が合う。昔と同じ黒と灰の混ざった深い色の眼差しが、欲に濡れ、シチロージを映して揺れる。心臓まで一突きにされそうな視線。昔とは違う、何かに駆り立てられるようなその瞳に、シチロージの脳裏に一瞬、一つの疑問が過ぎる。
――もしかして、あなたも。
けれどもそれを口にする余裕は、どこにも残っていなかった。カンベエの手がシチロージを掻き抱く。カンベエから与えられる熱に、呑まれ、溺れ、一つに溶け落ちていく。
「カンベエ、さま、もう……ッ、」
限界です。そう言い切る前に、カンベエの手に頭を引き寄せられた。愛しい人の劣情に溶けた顔が近付き、唇を奪われる。呼吸も惜しむような口付けを交わし、どこまでが自分で、どこからがカンベエなのか、次第に分からなくなってくる。右手の中のカンベエの熱。蕩ける内側に銜え込まれたシチロージの熱。舌を、腰を、手を動かして、熱が擦れ、燃え上がり、行き着くところまで昂っていく。
そして目の前が弾けるような感覚がして、シチロージがカンベエの中で果てるとほぼ同時に、シチロージの手の中でカンベエの熱が迸る感触。絶頂の真っ只中へと一気に突き落とされた二人は、強く、強く抱き締め合い、互いの存在を、その熱を、確かめ合っていた。
* * *
夜の静寂が、再び辺り一面に立ち込める。
水気を絞った手拭いで、褥に横たわるカンベエの体を拭う。体を重ねた後に訪れるこの時間が、シチロージは昔から好きだった。尤も、カンベエはシチロージの手を煩わせることを潔しとしないので、毎度のようにちょっとした攻防を繰り広げるのだが、それも含めてシチロージにとっては楽しい時間だった。
「おぬしは本当に、変わらんな」
呆れ混じりの視線を軽く受け流し、カンベエの浅黒い体を清めていく。ほんの少し前までシチロージの手の内にあった逸物を柔らかく拭えば、ひゅ、と息を呑む音が聞こえた。そのまま白濁に汚れる菊座も拭おうとした瞬間、大きな手でぱしりと手拭いを奪われる。
「自分でやる」
「遠慮しなくても良いんですよ」
「たわけ」
潤んだ目で睨まれたシチロージは、それ以上食い下がりはしなかった。
緩慢な動きで其処に指を宛がったカンベエが、眉を少し寄せ、くちゅ、と濡れた音と共に白濁を掻き出す。その堪えるような表情は歳を重ねてもひどく悩ましげで、シチロージはどきりと胸が跳ねるのを感じながら、もう一枚の手拭いで自分の体を清め始める。
どこからか蛙の声が小さく聞こえてくる以外は、ひっそりと静まり返った夜更け。身に染み込むような静寂の重さが少し苦しく、そして心地良い。まるでこの広い世界の中でたった二人、生き残ったかのような。そんなことを考えながらぼんやりと体を拭いていたシチロージの頭の中で、一度消えかけていた疑問が再び浮かび上がった。
「……カンベエ様」
「ん?」
「カンベエ様も、あの日の……夢を見ますか」
少しの逡巡の後、シチロージはカンベエにそう尋ねていた。あの時、見つめ合った瞬間の瞳の色。互いの体温を、鼓動を感じ、生きていることを確かめるように求め合った瞬間の、シチロージを真っ直ぐに射抜いたカンベエの視線。何かに駆り立てられるような、何かを恐れるようなそれは、かつて共に空を駆けていた頃には見たことがなかった。強いて言うならそれは、カンベエの瞳に映ったシチロージの、夢に怯える目によく似ていた気がしたのだ。
体を拭いたカンベエが、ゆっくりと体を起こす。顔に垂れた癖のある髪を掻き上げて、まるで凪いだ水面のような穏やかな目が、じっとシチロージを見つめる。シチロージは吸い寄せられるようにその傍らへと近付いて、カンベエと向かい合った。無骨な指が伸び、シチロージの頬にそっと触れる。まるでシチロージの輪郭を確かめるように指が動いて、カンベエが微かに笑みを浮かべた。
「十年経って、ようやく薄れてきた、気がするな」
「……、ハハ、」
笑いが口から漏れると同時に、涙がぽろりと零れた。
カンベエも、シチロージと同じだったのだ。現実に見たことがないはずの光景を夢に見て、シチロージの死を恐れていた。だからこそ、カンベエはシチロージを受け入れ、その生を確認するように求め合ったのだ。
カンベエの指が、シチロージの涙を拭う。その指の感触にまた涙が溢れそうになって、シチロージは堪らずカンベエの胸に顔を埋めた。確かに聞こえる、カンベエの鼓動。五年の間、一度たりとも忘れたことのない男の心臓の音が、シチロージの体に、心に響き渡る。
「おぬしにとっては、あれはまだ五年前なのだろう」
「……ええ」
「傷を癒すには、時を待つしかあるまい」
カンベエが十年の時を乗り越える間、シチロージはその半分を眠り続けていた。冬眠によって、シチロージは五年の歳月を世界から置き去りにされてしまったのだ。十年前の戦も、シチロージにとってはたったの五年前の出来事。それでは忘れられなくとも当然だと、カンベエは慰めてくれているのだろう。
胸元に押しつけた頭を、宥めるように撫でる手。まるで子供扱いだと思ったが、今のシチロージは子供も同然だったから、おとなしくカンベエの手に頭を預ける。俯く視線の先、六花の彫物が刻まれた右手の甲が目に留まって、シチロージはかつて同じ彫物があったはずの左手を、その手に重ねた。あの時のように六花が合わさることはないが、この世界でカンベエだけは、シチロージの左手に咲いていた花を覚えてくれている。それだけで、過去の亡霊に打ち勝つには十分だという気がした。
「あなたと会えたから……きっとすぐ、傷は癒えます」
囁くシチロージの頭上で、そうか、と小さく笑う気配。カンベエの腕はシチロージをしっかりと抱き寄せて離さない。その腕の力強さが、カンベエの偽りない気持ちをシチロージに伝えてくる。
「お慕いしております、カンベエ様」
「……儂もだ、シチロージ」
互いの顔を見ないようにそう告げて、夜の静寂に包まれる中、シチロージはカンベエの胸に顔を寄せ、その鼓動の音をいつまでも聞き続けていた。