忘れたつもりでいたのに

 一番鶏の鳴き声が、遠く響き渡る。
 朝を告げるその声に引き寄せられるように、カンベエは目を開けた。閉じた蔀戸の隙間から、白んだ陽光がほんのりと射し込んでいる。もう一度、遠くから鶏の鳴き声が聞こえて、そしてまた、しんとした静けさが戻る。
 吹く風が少しずつ冷たくなり始めたカンナ村に、朝靄と共に立ち込める静寂。それは、野伏せりと、そして都との戦の果てに、ようやく訪れた安寧だった。稲刈りも無事に終わり、早朝から田畑を見に行くことのなくなった百姓達は各々の家で冬支度を整えているのだろう、早朝から人の声が外から聞こえてくることも少なくなった。或いは、とカンベエは布団の中で欠伸を噛み殺しながら思う。彼らはひょっとすると、カンベエ達に気を遣って、この家の周りでは静寂を保とうとしているのかもしれない。
 カンベエはゆっくりと、布団に横たえていた体を起こす。自分なりに気を遣ったつもりだったが、それでも戦で受けたあちこちの傷が引き攣れるように鈍く痛んだ。だがそれは単なる物理的な痛みでしかなく、感傷をもたらすようなものでもない。戦から幾許も経たない傷は未だ癒え切らないが、いずれ時が経てば塞がって、遠い過去の記憶として色褪せていくのを、これまでの経験からカンベエは知っている。全てはそういうものなのだ。時の流れという否応の無い静寂の内に何もかも葬られて、そして容赦なく、過去へと流れ去っていく。
(それにしても、今日は一段と静かだ)
 癖のある髪を掻き上げながら、カンベエはいつも以上の静寂にいささかの違和感を覚える。戦の後、生き残ったサムライ達の養生にと村人達が急拵えで用意してくれた家は、このような村の家にしては珍しい二階建てで、サムライ達の寝室が二階にあり、一階部分で村人達が日々の食事の準備などを手伝えるようになっていた。田畑を大切にする百姓達の朝は早く、カンベエが目を覚ます頃には階下から人の声が聞こえ始めている。とりわけ率先してサムライ達の面倒を見てくれるリキチやキララの声がよく聞こえてきて、それに交ざるのが、昔からまるで変わらない世話焼きの古女房の声だった。だが今日はほんの微かに人の気配がするような気もするが、階下は不思議と静まり返っている。はて、と首を傾げたところで、カンベエは不意に、己の傍らによく馴染んだ気配があることにようやく気付いて、ぎょっとして動きを止めた。
 シチロージが、静かな寝息を立てていた。
 思わず硬直したのは、自分の動きのせいでシチロージの眠りを妨げるかもしれないと思ったからだ。だが息を潜めて見守ることしばし、彼は布団の中で小さく身を丸めたまま、相変わらず穏やかな寝息を立てている。その姿を見て、ようやくカンベエは肩の力を抜くと、シチロージの寝顔をまじまじと見つめた。
 どこかあどけない印象を抱かせる白皙の寝顔に、解いた金髪がさらりと垂れ落ちている。カンベエがシチロージの寝顔を見るのは久しぶりだった。この男は飄々と気さくな風でいて、実のところ野生の獣のように警戒心が強い。人の気配や物音にとにかく敏感な男だから、昔からカンベエの前でも眠ることはそう多くなかったし、ましてカンベエ以外の気配があるところでは決して眠ろうとはしなかった。
 かつての大戦が過去となっても、彼のその性質は変わっていなかったらしく、カンベエが把握している限り、此度の戦の最中、他のサムライ達と居を共にしていたときにシチロージが眠っているのをまともに見たことがない。彼自身は不眠不休で働くヘイハチを心配していたが、彼もまたあの戦の最中ろくに眠っていなかったのだろうと、今更ながらカンベエは思う。窮屈そうに身を丸めて眠るのも昔からまるで変わらないのだなと、そんな思いも同時に脳裏を過った。
「んー……」
 不意に小さな呻き声が聞こえて、カンベエはまたもや硬直してしまう。自分の微かな気配でさえもシチロージを起こしてしまいそうで怖かった。だがカンベエが部屋を出れば、その動きできっと目を覚ますだろうという確信があったから、カンベエはここを動けない。固唾を呑んで見守るシチロージは幸いにも、呻きながら寝返りを一つ打つだけで、またすうすうと寝息を立て始めた。身動ぎした拍子に布団が捲れて、すっかり着崩れた寝間着の間、微かに血の滲む包帯が覗く。何か悪いものでも見てしまったような気がして、カンベエはそっと目を逸らした。未だ過去へと押し流せない傷。カンベエとシチロージとが、再び共に戦い、再び共に生き残った、その証の傷跡。
 何故カンベエがシチロージと寝室を共にしているかというと、そもそもシチロージがそうしたいと言い出したからだった。
『アタシはあの方の古女房でげすから。女房は旦那と一つ屋根の下、そう相場が決まってるでしょう。その方が部屋だって少なく済みますしね』
 五年の間ですっかり板についた幇間口調でいかにもそれらしく言うものだから、当初は困惑していた村人達もそういうものかと納得してしまい、その結果、カンベエは実に十年ぶりに、シチロージと寝室を共にすることになった。
 とはいえ、二人はただ寝室という空間を共有しているに過ぎず、彼がかつてのようにカンベエへと手を伸ばしてくることはない。てっきりそれが目的なのかと勘繰っていたが、シチロージはまるでそんな素振りを見せることはなかった。無論、カンベエにもその理由は何となく分かっている。互いが、互いの距離を掴みかねているのだ。どこまでが許されて、どこからが許されないのかを、ずっと探り続けている。或いは、どちらがこの危うい均衡を破るのか、出方を窺い続けている。
 ただ、そんな無言の駆け引きが続く中でも、互いの傷の手当ては、互いの手で行っていた。
 村人達の申し出に対して、自分達は傷を診るのに慣れているからと丁重に断ったが、その根底にはシチロージの傷を知るのは自分だけで良いという自負があった。恐らくそれは逆も然りだ。だからシチロージも、カンベエの提案に対して文句を言わなかった。きっとそれくらい、互いに対する独占欲があった。それでも未だ、踏み込みきれない何かが二人の間を隔てている。
 共に死地を潜り抜けた十年前は遠い過去へと流れ去り、当時に拵えた傷跡もとっくに塞がって色褪せつつある。カンベエが一人で過ごした十年をシチロージは知らないし、シチロージが蛍屋で過ごした五年をカンベエは知らない。知っていることよりも知らないことが増えた男を、戦が終わった以上は新たな居場所に帰すのがカンベエの務めだ。そう頭の中では分かっていた、けれども。
「む……ぅ、」
 その声にカンベエははっと瞠目する。シチロージが顔を顰めてから、まるで猫のように伸びをして、それからぱちりと目を開けた。かつて共に駆けた空の色をそのまま閉じ込めたような碧眼。これほど美しい瞳を、カンベエは遠い北国の血を引くというこの男以外に未だ見たことがない。
「カンベエさま……?」
 眠たげに瞼をぱちぱちと瞬かせ、シチロージが未だ焦点のあやふやな目でカンベエを見上げる。今の今までその寝顔を見つめていたことが居た堪れなくなり、何も言えないままでいると、シチロージがカンベエの顔から視線を動かして蔀戸をちらりと見やり、途端にがば、と身を起こして、案の定傷が痛んだのか、痛てッ、と小さく悲鳴を上げた。
「シチロージ」
「あ痛た……っと、こりゃ随分と寝坊しちまったようで」
 そう言われて、カンベエもようやく、シチロージが珍しく遅くまで寝ていた事実に思い至る。シチロージはいつも早々に起きて食事の支度などを手伝っているらしく、だからこそ階下から人好きのするこの男の声が聞こえてくるのだ。おサムライ様の手を煩わせるなんて、と百姓達は当初恐縮していたが、元々世話焼き気質で人懐っこい男だから、今ではすっかり百姓達とも馴染んでいるようだった。
「ちょっくら朝餉の支度を手伝ってきますよ」
 そう言って布団からさっさと這い出したシチロージが、ばさりと無造作に寝間着を脱ぎ捨てる。互いの前で着替えさえ遠慮しないのも、まるで昔から何一つ変わらない。顕わになる引き締まった体の、大戦時代からの古傷と、未だ血が薄く滲む白い包帯と、そして左肘から先の金属の義手と。自分がよく知るシチロージと何も知らないシチロージとが混ざった姿を見つめていると、カンベエの目線に気付いた古女房が不思議そうに首を傾げた。
「どうかなさいましたか」
「あ、いや……」
 本当はそれ以上、何も言わなくて良かったし、何か言う必要もなかったのだろう。だがどうしてだか、カンベエはシチロージを引き留めたくなっていた。このような情景が――寝起きのシチロージと会話する光景が久しぶりだったから、名残惜しくなったのかもしれない。
「その……おぬしが眠っているのを見て、安心した」
 包帯の上から普段着を羽織り始めたシチロージが目を瞬かせ、それから小さく微笑む。
「カンベエ様のお陰ですよ」
「儂の?」
「不思議なもんで、あなたの気配があると、安心して眠れるんです。ようやっと、巧い寝方を思い出した気がします」
 その言葉を聞いた瞬間、ひゅ、と、息が詰まるような感覚があった。遠い過去へと押し遣ったはずの記憶を、強引に引き寄せる言葉。時の流れが、狂う。カンベエの目の前、男の立ち姿に、かつて生死を共にした、軍服姿の男が重なる。
「何年経ったところで、変われないものですね。……変わるつもりもありませんが」
「シチ、」
 囁くように告げた最後の言葉さえ、カンベエには一言一句、全て聞こえていた。聞こえないはずがなかった。忘れるわけがない。カンベエに、シチロージの声が届かないはずがないのだから。
「おっと、いい加減に下りないと、リキチに心配されちまう」
 いけねえいけねえ、と幇間らしく大仰に頭をぺちんと叩く仕草をした瞬間、軍服姿の面影がすっと掻き消えた。
 色素の薄い彼によく似合う藤色の羽織を纏って、シチロージが寝室を出て行く。静けさに包まれていた一階が俄かに賑やかになって、日頃と変わらないささやかな喧噪が戻る。恐らくシチロージが起きてこないから、準備をする百姓達も遠慮していたのだろう。どこまでも場を盛り上げるのが上手い男だから、自分が寝坊したことを面白おかしく話しているに違いない。昔から、あの男はそうやって、カンベエ率いる部隊の仲間達を常に和ませてきた。
 ――そう、昔から、シチロージは何一つ変わっていない。飄々とした態度も、警戒心が強いところも、それでいてカンベエの前ではひどく無防備になるところも。
 カンベエは立ち上がり、寝間着を脱ぎ始める。一人で過ごした十年で幾つもの傷が増えた体。だが眠るシチロージに気付けないほどに、彼の気配はこの体に変わらず馴染んでしまっている。決して過去へと押し流せず、今も色褪せずに自分の中に留まり続ける男の存在。手放すべきだと思いながら、カンベエはきっと、シチロージを手放せない。そしてシチロージもまた、手放されるつもりは毛頭ないのだと思う。
 十年など、自分達二人が変化するにはあまりにも取るに足らない年月だった。何一つとして過去へと掻き消えていないどころか、色褪せることのない記憶をまるで昨日のことのように思い出してしまう。それは恐らく、互いを失ったという傷が、今になっても癒えなかったからだ。十年経っても塞がらなかった傷を抱えながら、こうして再び巡り会って、どうしようもない居心地の良さを感じてしまった。
 だから、きっともう、離れられない。それが果たして正解なのは、シチロージが本当にそれを望んでいるのかは、分からないけれども。
「朝餉の支度ができましたよォ」
 階下から、シチロージのよく通る声が聞こえてくる。カンベエと、そしてカツシロウへと向けたであろう言葉を聞いて、着替えを終えたカンベエは二人分の床を上げてから寝室を出る。
 次の田植えの季節まで、まだ遠い。未だ色褪せない過去から連なるこの関係に、カンベエはいずれ答えを出さなければいけないが、幸いにも猶予は残されている。だから今は、この手探りのような危うい関係のまま、シチロージの寝顔を新たな記憶に焼き付けておきたかった。