襖を開けた瞬間、煙草の香りがふわりと鼻を掠めた。
カンベエは思わず立ち止まる。煙草などあまりに嗅ぎ慣れない匂いだったから、一昨日から借りている宿の、入る部屋を間違えたのではないかと思ったからだ。だが、八畳ほどの小さな部屋の中、見慣れた藤色の羽織を纏った背中が見えたから、自分は正しい部屋に戻ってきたのだとカンベエは確信せざるを得なかった。
「シチロージ?」
カンベエの呼びかけに、人影が振り返る。今しがた開けた襖とはちょうど反対側の、縁側と部屋とを仕切る障子を開けて、縁側へ半分身を乗り出すようにしていたシチロージが、カンベエに気付いて人好きのする笑みを浮かべた。出会った頃から変わらぬその笑顔に安堵したのも束の間、振り返ったシチロージの右手が握るものを見て、カンベエは硬直してしまう。――一管の、細身の煙管。何の装飾もない銀の雁首と、鮮やかな朱塗りの羅宇とが、彼の白い手に不思議と違和感なく収まっていた。
まるで最初からシチロージと共にあったかのようなそれを、しかしながらカンベエは一度も見たことがない。そもそも、彼がカンベエと共に空を駆けていた時代、シチロージは煙管など吸っていなかった。立ち尽くすカンベエの困惑の原因を察したのだろう、シチロージが手の中の煙管を揺らしてみせる。立ち上る紫煙がゆらゆらと舞いながら、開け放たれた障子の向こうへと流れていく。
「すみません、隠すつもりはなかったんですが」
ほんの少しばつの悪そうな顔をするシチロージは、まるで悪戯が見つかった子供のようだった。
「おぬし、いつから」
「旦那とはぐれている間に、悪いことを覚えちまったんでげすよ」
聞かずとも分かることを尋ねてしまったカンベエに、すっかり板に付いた幇間口調でそう応えて、シチロージがどこか艶のある笑みを浮かべる。カンベエはそんなシチロージの笑顔を見つめたまま後ろ手に襖を閉めると、小さな部屋の中、縁側に近いところへ座っているシチロージへ近付いた。
カンベエがシチロージの直ぐ傍らに腰を下ろせば、シチロージも煙管を煙管盆の上に置き、カンベエの方へと向き直る。部屋の襖を開けたカンベエに向けた屈託のない笑顔も、三本に結わえた金の髷も、カンベエが知るかつてのシチロージのままだった。だが、今し方その色白の手を離れた煙管も、紫煙の香りを纏った艶っぽい笑顔も、カンベエの知るシチロージのものではない。その事実が、カンベエの心を波立たせる。
「そんなに怖い顔をなさらないでください」
無言で見つめ合って、どのくらい経っただろうか。シチロージが不意にそう笑って、カンベエは面食らってしまった。
「何だと?」
「鏡があったらお見せしたいくらいです。今のカンベエ様のお顔ったら、とっても恐ろしいの何の」
そんなに怖い顔をしていたのかという驚きと、そうなったのは誰のせいだという怒りにも似た気持ちが込み上げ、カンベエは憮然とした顔になってしまう。そんなカンベエを見て一体何がおかしいのか、けらけらとシチロージが笑い始め、そんな彼の様子がますますカンベエを苛立たせた。シチロージにとっては面白いことなのかもしれないが、カンベエにとっては何も面白くない。そもそも、シチロージの態度はまるでカンベエを煙に巻いているようで、どうにも腹立たしい。
「カンベエ様」
むすりと押し黙ったカンベエの名を、シチロージが静かに呼んだ。淡々とした声と口調。昔から変わらぬ美しい碧眼が、カンベエをじっと見据える。
「あなたの知らない私が、そんなに気に障りますか」
「それは――」
シチロージ自身の口からはっきりとそう尋ねられ、そうだ、とも、そうではない、とも言えず、カンベエは言葉に詰まった。
カンベエの知らないシチロージを目の当たりにして、カンベエの心が落ち着かないのは紛うことなき事実だ。だがそれを言ったところでどうしようもない、ともカンベエは分かっている。自分が知らない場所で、知らない世界で、シチロージは五年の間を生きていた。そんな彼がカンベエの知らない側面を持つのは、当然のことなのだ。だが、そうだと頭では分かっていても。シチロージが自分の知らない姿に変化することは、カンベエにはどうしようもなく耐え難かった。
つまりカンベエは、今のシチロージを否定したいわけではないが、昔とは違うシチロージの姿を見たくはないのだ。それが幼稚な感情だという自覚はある。きっと、それだけカンベエは、シチロージに執着してしまっている。
「シチロージ」
「はい」
「儂は、煙草の匂いは好かぬ」
それが本当に言いたいことではないのだと、とうに気付いているらしいシチロージが、くつくつと小さく笑った。
「本当に、それだけですかい、旦那」
シチロージの右手が、胡座をかいたカンベエの膝のすぐ傍へ。しなやかに身を乗り出して、まるで挑むようにじっとカンベエの顔を覗き込む古女房は、真剣な風でもあり、カンベエをからかっている風でもあった。
「……言わねば、分からんか」
「言わなければ、分かるわけがないでしょう」
カンベエは、むう、と唸ってしまう。カンベエの意図を、思考を読み切って、いつも真っ先に道を切り開いていく男が、カンベエの今の感情を理解できないはずがなく、ただ察しの悪い振りをしているだけなのだ。かつて共に駆けていた成層圏の空を思わせる深い青の瞳が、カンベエの心を見透かせないわけがないというのに、分からない振りを装って、カンベエに何もかもを言わせようとしてくる。
ぐっと近付くシチロージの口元から、煙草の匂い。あまり好きではない上に慣れないその香りに顔を顰めると、シチロージが苦笑いを浮かべるのが分かった。
「今の私が、嫌ですか?」
「……嫌では、ない」
ぽつりと漏らした言葉に、シチロージが意外そうな顔をした。確かにそう思われても仕方がないとは、カンベエ自身も感じている。だがカンベエは、シチロージの今を否定したいわけではない。別離を経た上でも自分と共に生きることを選んだ古女房を、否定できるはずもない。強いて言うならば、その変化を、カンベエが受け入れられていないだけだ。
「だが、少し、居心地が悪い」
己の中でわだかまる思いをどう言葉にしたら良いものかと悩んだ挙げ句、苦し紛れにそう口にすると、シチロージが少しの間黙り込んで、次の瞬間、にっこりと笑顔を浮かべた。
その少し悪い顔に、カンベエは心当たりがある。ちょっとした企みが成功したときの、してやったりという笑顔。カンベエは呆気に取られてしまい――それから、自分がからかわれていたのだと悟った。
「シチロージ、おぬし、」
「すみません、つい」
シチロージの企みにまんまと乗せられてしまい、恥ずかしいやら腹立たしいやら。カンベエがきっと睨んだ先、シチロージがくすくすと笑みを漏らしながら謝罪の言葉を口にするものの、どう考えてもまるで誠意がこもっていない。カンベエはますます渋面になってしまい、それを見たシチロージが笑みを噛み殺しながら「すみません」と謝って、カンベエへとそっと左手を伸ばしてきた。
「カンベエ様」
かつてのシチロージとは違う金属の手が、カンベエの肩へと触れる。カンベエは憮然としつつも、そのひやりとした手を振り払おうとは思わなかった。
昔とは大きく変わってしまった彼の手は、しかし昔と変わらず槍を振るい、シチロージ自身やカンベエを幾度となく守り続けている。それはまるで、シチロージの変わらぬ部分も、変化した部分も、どちらも象徴しているかのようだと、カンベエは思った。そして今目の前に居る男は、確かに変化した部分もあるのかもしれないが、その本質は昔と何も変わっていないのだ、とも。
シチロージが、カンベエへと更に顔を近付ける。艶のある笑顔は幇間として身につけたものなのだろうが、カンベエをからかおうとしてくる様は、副官の頃からまるで変わらない。
「旦那に妬かれて、嫌な女房はおりません」
わざと気取ったシチロージの声を、昔も聞いたことがある。自分を女房などと平気で言ってのけるシチロージを前に、もはや怒る気持ちも消え失せていた。
「儂は妬いてなどおらぬ」
「まあまあ、拗ねないでください」
「拗ねてもおらぬ」
「本当に?」
仏頂面をしてみせるカンベエへ、シチロージが何かを企んだような笑顔を見せる。その魂胆は分かっていた――カンベエに、そう言わせたいのだ。
カンベエ自身も、自分の知らないシチロージの姿に嫉妬しているのだということは薄々感じている。だがシチロージの前でそれを認めるのは癪だった。認めようものなら、シチロージに散々からかわれるのが目に見えている。だからこそ、どうにかこの男を、逆に出し抜いてやりたいと思った。
「ねえ、旦那――」
気取った声を出すシチロージの頬にカンベエは手を伸ばし、口の減らないその唇を、己のそれでぴたりと塞ぐ。
は、と見開かれる碧眼。
合わさった唇の間から、鼻腔へ漂う煙草の匂い。
ほんの一瞬、全ての音が消え失せたような静寂。
ほとんど触れ合うだけの口付けを交わして、カンベエは口を離す。面食らったようなシチロージの顔を見て、ようやく一矢報いた気持ちになった。それから一拍置いて、自分の口の中に残った紫煙の匂いに顔を顰める。
「……やはり、煙草は好かん」
煙管盆の上に置かれた煙管は、未だ紫煙を燻らせている。その朱塗りの羅宇は、シチロージの相棒である仕込み槍を彷彿とさせた。カンベエの知らない姿のようでいて、きっとシチロージは昔から変わっていない。彼の魂は、これからもサムライとしてカンベエの傍らにあり続けるのだろう。
だが、それでも。幼稚な感情に任せて言うならば、自分の知らないシチロージの姿がどうにも気に障るのが、カンベエという男なのだ。
「吸うなとは言わぬが、ほどほどにしてくれ」
子供じみた嫉妬心を隠そうとしたところで、とうに見抜かれているのは分かっていても。大人げがないのは百も承知で、それでも真面目くさった顔で取り繕った言い訳を口にすれば、何もかもを見抜いているのだろうシチロージが、承知、と晴れやかに笑った。