寄合を終え、夜も更けた頃に屋敷へと帰ったカンベエは、案の定というべきか、にこやかな顔のシチロージに迎えられた。
「おぬし、いつから待っておった」
上がり框で三つ指をつき「お帰りなさいませ」と頭を下げる伴侶の姿を見て、カンベエは思わず苦虫を噛み潰したような顔をしてしまう。迎えられるのが嫌な訳では断じてないのだが、こうして玄関先で待ち受けるシチロージを見ると、彼がまだ幼い子供だった頃、出かけたカンベエの帰りを待つと言って聞かずに日がな一日玄関で座り込んでいたという話をどうしても思い出してしまい、まさかそんな真似をしていないだろうかと不安になってしまうのだ。そんなカンベエの心配を知ってか知らずか、顔を上げたシチロージは微笑みを崩さぬまま、微かに首を傾げた。
「カンベエ様の気が近付くのを感じたので、お出迎えに上がった次第です」
「……そうか」
一体それはいつからなのか――そう問いたい気持ちもあったが、カンベエはそれ以上何も言わなかった。番となった相手の気には殊更敏感になり、遠く離れたところからでもその気を辿ることが可能になる。それはカンベエ自身も肌身に感じていることで、だからこそシチロージが随分前から己の帰宅を待っていたのではないかという疑問が消えなかったが、伴侶が望んでやっていることを咎めるのは、どうにも違うような気がしたからだ。結局、一つ頷くだけに留め、草履を脱いで屋敷へと上がったカンベエへ、すっと立ち上がったシチロージが近付く。
「羽織、お預かりしますよ」
「すまん」
冷たい夜気が染み込んだ羽織を脱いで渡すと、シチロージはそれを恭しく受け取り、左腕にかける。それから玄関の脇の戸棚に置いていた燭台を右手に持って、まるでカンベエの先導をするかのように半歩先を歩き始めた。
「随分と遅くまで話し合っておられたのですね」
「街のことで、少し課題があってな」
「それは……私も伺っておいた方が良い類の話ですか?」
この辺り一帯に住まう化生達が集う寄合は、基本的に屋敷の主のみが参加し、その伴侶や使用人が顔を出すことはない。だがそこで交わされる話は化生達全員に関わるものが多く、カンベエも寄合の後は必ず屋敷の者に寄合で得た情報を伝えることにしていた。カンベエをちらりと振り返り、暗にその内容を問うてくるシチロージに、カンベエはうむ、と頷いてみせる。
「おぬしや、屋敷の者皆が知っておいた方が良いことだ。明朝、儂から話す」
「承知しました。……それにしても」
ぽつりとそう呟いたシチロージが、己の左腕にかけたカンベエの羽織をきゅっと抱き寄せる。
「帰りの道中、さぞかし寒かったでしょう」
秋も暮れに差し掛かり、冬の訪れを予感させる夜風に当たっていた羽織は、すっかり冷えてしまっていたらしい。その冷たさを直に感じたらしいシチロージが、気遣わしげな顔でそう尋ねてくるのに、カンベエは笑いながら首を横に振った。
「まだそこまで冷え込んではおらぬ。歩いている内に、気にならなくなる程度だ」
「それならば良いのですが……」
「だが直に、冬が来るのだろうな。そろそろ火鉢を出しても良いかもしれん」
「丁度、火鉢や綿入れを出す頃合いかもしれないと、じいやとも話していたところですよ」
「そうであったか」
カンベエ不在の間に屋敷のことまで気を配るシチロージは、もうすっかり島田家の奥方の風格を漂わせている。こんな夜更けに女中も伴わず、一人でカンベエを待っているところからもそれが窺えた。カンベエを誰よりも慕いつつ周りへの配慮を欠かさないシチロージのことだから、女中達にも自分がお迎えをやると言って、朝早くから炊事や洗濯をせねばならぬ彼女らを早々に休ませたのだろう。全く、自分には出来すぎた伴侶だ、とカンベエは感心しながら半歩先の背中を追うように自室へと向かう。
「お食事は済ませてこられると伺っていたので、準備しておりませんが、大丈夫でしたか?」
薄暗く静まり返った廊下を進み、二人の自室の前に辿り着いたところで、襖を開けながらカンベエを見遣ったシチロージが、静かにそう問いかけてきた。
「心配には及ばぬ。途中で飯も振舞われたのでな」
「それを聞いて安心しました」
言葉通り、ほっとした顔になったシチロージが、今度はその白皙の顔にふわりと微笑みを浮かべる。
「それであれば、湯浴みをなさっては如何ですか。お着替えは用意してありますので」
化生は清涼な気が豊富な土地を好んで住むため、自ずと豊かな自然の恩恵に与ることとなる。島田家の土地も例外ではなく、屋敷の近くに温泉が湧き出しており、そこから湯を引いているため、この屋敷では時間や手間を気にすることなく湯浴みをすることが可能だった。だからカンベエも、屋敷に帰れば当然湯浴みをするつもりでいたのだが、それを予見して着替えまで準備して待っているとは、さすがはこの伴侶、どこまでも気が利く男である。
自室へと入り、燭台を頼りに行灯へ火を点したシチロージが、カンベエの羽織を衣桁へ掛けてから、廊下で待つカンベエに着替えと手ぬぐいとを渡してくる。几帳面に畳まれた寝間着を受け取って、カンベエはシチロージへと頭を下げた。
「手間をかけさせたな、シチ」
そう言うと、シチロージはまるで気にしていないと言わんばかりにからりと笑った。
「手間だなんて、とんでもない。ささ、体も冷えたでしょうし、ゆっくり温まってくださいね。上がる頃に、お茶を淹れておきますから」
「……忝い」
何から何まで、本当に器量よしの己の伴侶にカンベエは礼を言いながら、彼が持っていた燭台を受け取って風呂場へと向かった。
風呂を上がったカンベエが寝間着姿で自室へと戻ると、やはりその気を察知していたらしいシチロージが、襖を開けてカンベエを迎え入れた。
「お帰りなさいませ」
「うむ」
カンベエの脱いだ着物を受け取ったシチロージが、いそいそと片付けを始める。丁寧に敷かれた布団の脇を通り過ぎて向かった文机の上には、ほかほかと湯気の立ち上る湯呑みが置かれていた。
燭台はカンベエが持って行ってしまっていたが、豹の性質を持つシチロージのことだ、夜目が利くのを活かして台所に向かい、茶を淹れていたのだろう。その気配りに感心しつつ、喉が渇いていたカンベエは文机の前に腰を下ろして、少し温くなった茶を啜る。
「カンベエ様」
片付けを終えたシチロージが、カンベエへそっと歩み寄る気配。カンベエが振り返ると、シチロージの立ち姿が淡い金色の光を帯びながら柔らかく溶けて、次の瞬間にはそこに、一頭の豹が現れていた。
豹の姿に変化したシチロージが、胡座を組んだカンベエの足に頭を擦り付け、喉をごろごろと鳴らす。まるで大きな猫のような仕草にカンベエは頬を緩めると、茶を飲み干した湯呑みを文机に置き、すりすりと頭を押し付けてくるシチロージの耳の間をそっと撫でた。豹がするりと身を撓らせ、カンベエの胡坐の上に潜り込み、体ごと擦り寄ってくる。その背中に手を回し、斑模様の柔らかな毛並みを指の先で弄ぶ。
「どうかしたか?」
「カンベエ様が湯冷めしては困りますから」
真面目くさった調子でシチロージが言い、じっとカンベエを見つめてくる。獣の姿になってもその碧眼の美しさは変わらず、まるで宝石のような眼にカンベエはそうかと一言頷いて、豹の背中を撫でながらぎゅうと抱き締めてやる。
「おぬしこそ、湯に浸かってから随分経つのだろう。冷えておるのではないか?」
豹の姿のシチロージがぱちりと瞬きをしてから、カンベエの頬にその顔を擦り付けてきた。長い髭が、濡れた鼻先が、カンベエの頬をちらちらと掠めて、くすぐったさにカンベエは目を細める。そんなカンベエの肩の辺りに首を埋めてくるシチロージの尻尾が、満足げに畳の上を揺れる。
「この姿だと、寒さも気になりませんから」
「ということは、おぬし、今まで冷えておったのだろう」
ぴたり、と豹の尻尾が止まった。
どうやら図星だったらしく、獣の姿をしていても分かるほど、シチロージがばつの悪そうな顔になり、上目遣いでカンベエの顔色を窺ってくる。そんな可愛らしい仕草に苦笑いしながら、カンベエはシチロージを抱き寄せ、屋敷へ帰ってきたときにシチロージと交わした会話を思い出した。
「やはり、明日のうちに、冬支度を調える方が良さそうだな」
「すみません……」
すっかりしょげた様子のシチロージは、心なしか髭までも萎れているように見える。カンベエは小さく笑みを漏らしながら、豹の喉元を優しく撫で始める。
「おぬしが謝ることではない。いずれせねばならぬのだし、早めに支度を調えた方が、急な寒さにも対応できるだろう」
喉を撫でられたシチロージが気持ち良さげに目を細め、ごろごろと鳴き声を上げながら長い尻尾をカンベエの腰へ巻き付けてきた。密着する柔らかな毛並みから伝わってくる温もり。その温度を逃さぬようにぎゅっと抱き締めながら、カンベエはシチロージが予め敷いてあった布団をちらりと見る。
「冷えぬうちに早く寝るとしよう、シチ。おぬしはこのまま寝るか?」
「良いのですか?」
「その方がおぬしも暖かいのだろう」
無言で頷いたシチロージがしなやかに身を翻し、カンベエの膝の上から離れる。立ち上がるカンベエよりも一足先に、金色の豹は布団の中へ潜り込んだかと思うと、顔だけを布団から出してカンベエを見つめてくる。
「まだ、温まってはおりませんが」
「構わぬ。共に寝れば、直に温かくなる」
こちらを見上げるシチロージの、甘えるような目を堪らなく愛しく感じながら、カンベエは布団へと向かう。シチロージと同じ布団の中へと潜り込み、途端に身を擦り付けてくる豹の体躯を抱き寄せて、カンベエはその柔らかな毛並にそっと頬を寄せた。