今日も、そしてこれからも

 ――今日もまた生き残ったのだ、と思った。

 どこかで何かの燃える臭いがする。何かが爆ぜる音が時折それに混ざる。焼け野原は、今し方ここで戦があったことを確かに物語っていた。だが戦は終わり、重苦しい静寂が一帯を支配している。人も、草木も、何もかもが押し黙り、その中を、ただ冷たい風が駆け抜けていくだけだ。
 戦の終わった戦場はいつも、それまでの戦が嘘であったかのように静かだ。これが勝ち戦であれば、或いは鬨の声が上がったのかもしれないが。ありもしない仮定を胸中に一瞬描いたシチロージは首を振って、槍の刃先にこびりついた血糊を拭う。決して手入れを欠かしたことのない戦場の相棒は、今日の戦ですっかり輝きを失っていた。
 できるだけ汚れを拭った刃先を仕込み槍の内に片付け、シチロージは顔を上げる。目の前を丁度、生き残った仲間が二人引き揚げていくところだった。片方は左手をだらりと力なく垂らして、もう片方は右足を引き摺り、互いに肩を貸し合ってどうにか歩いている。足を引き摺る男の方が腰に佩いた刀とは別に一本の軍刀を握り締めているのに気付いて、シチロージの胸中に俄か、苦いものが込み上げた。
 二人は口を開くことはなく、シチロージも何も声をかけなかった。どんな言葉もこの状況では無意味だからだ。暗く沈んだ顔が二つ、言葉を交わすこともないままシチロージの傍らを通り過ぎていく。恐らく自分も似たような表情をしているのだろうと思う。体に絡み付く戦の疲労を気に留めない方が難しい。だがまだ撤退が済んでいない以上は、動き続けなければならない。
 あらかたの引き揚げが終わりつつある周囲からは次第に動くものが減って、戦の名残が色濃く残るさまをより一層際立たせていた。近場を見渡すだけでも所々に武器や防具が転がっている。目の前の小高い丘の上にも何かが落ちているのが見えて、シチロージは焼け焦げた土を踏んで歩き始めた。
 一歩一歩近付くたび、土に散らばるそれらがはっきりと形を成していく。黒い塊と見えていたものは、手前まで来ればどうにか人間の成れの果てだと分かった。そこから少し離れた場所に落ちた手袋は、よく見ると手袋ではなくもげた手そのものだった。そのすぐ傍らに落ちているのは機械の腕だろう。根本の部分で綺麗に断ち切られて、ぱちぱちと回路が焼ける音が聞こえる。それらを見ても、何の感傷も湧かない。強いて言うなら、己が生き残ったという現実が静かに染み渡ってくるだけだ。
 丘を登ったシチロージは、なだらかな下り坂の向こうに転がる巨大な紅蜘蛛型の機体を見つけた。泥濘に埋もれたように見えたそれは、よく見ると真っ二つに斬られた半身が地面に沈んでいるのだった。武功を上げんと欲して己を機械と化しても、死は平等に訪れる。ざまあねえなと口元に皮肉な笑みを乗せて、地に墜ちた機体を眺めていたシチロージは、その影から一人の男が現れた瞬間、思わず表情を引き締めていた。
「カンベエ様!」
 咄嗟にその名を叫ぶ。声につられてこちらを見上げた男と目が合って初めて、シチロージは自分が無意識のうちに彼を探していたのだと気付いた。己が仕えて久しい上官の精悍な顔立ちには憔悴の色が滲んで見えたが、それでもなお色褪せぬ鋭い眼光が、シチロージを真正面から見据える。
「生きていたか」
「おかげさまで、この通り」
 五体満足であることを示すように両手を広げて、煤と血で汚れた疲労困憊の顔をどうにか笑みの形にしてみせる。今は何としてでも笑わねばならない気がしたのだ。そんなシチロージの様子を見たカンベエは何も答えず、けれども僅かに目元を緩めた。この小さな表情の機微だけで、彼もまた自分と同じように安心したのだということは十分に伝わってきたから、無理にでもおどけてみせて良かった、とシチロージは思った。
 カンベエの率いた戦は、今日も負け戦に終わった。
 そもそも最初から、彼らの所属する前線部隊が勝てる相手ではないことは分かっていた。最初から、負けることなど分かり切っていたのだ。それでも本隊の攪乱のため、彼らは負け戦をせねばならなかった。大局の勝利のための、彼らはいわば踏み台だった。
 だから生きよと、突撃の前にカンベエは言った。この戦い、生きれば勝ちだと。一人でも多く生き延びよと。そう言って真っ先に戦場へ飛び込む上官に倣い、皆が我先にと戦場へと突っ込んで、大勢が傷を負い、そして、死んだ。
 カンベエが丘を登り、シチロージの立つ場所へと近付いてくる。負け戦と分かっていてもなお、指揮を取り続けた男。そんなカンベエたちを犠牲にした本隊はどうなったのだろうかとふと思ったが、シチロージは直ぐにそこから興味を無くした。勝っても負けても、次の戦があるだけだ。全てを巻き上げ、吸い取り、犠牲にしてもなお、戦は終わらない。その中で自分たちは、また生き残った。だからこれからも戦い続ける、それだけの話だった。
「とんだ負け戦であったな」
 近寄るカンベエの声には、自嘲の響きが籠もっていた。言いながら男が自らの手元に目線を落として、つられてそちらを見たシチロージは息を呑む。カンベエは腰に佩いた己の業物とは別に、何振かの軍刀を携えていた。何かを言いかけて、口を噤む。巧い言葉が見当たらなかった。先程二人組の友軍とすれ違ったときと同じだった。
 サムライの魂とも言うべき刀を、持ち主ではないカンベエが持っている。それはつまり、本来の主たちは皆、冥府へ旅立ったということだ。あの仲間が抱えていた刀も、恐らくそういうことだろう。戦場では、命などあまりに呆気なく散っていく。それでいて、残された証はどこまでも重い。その重みを両手に抱えて、カンベエはじっと立っている。疲労の色が滲むのは、その重みを感じているからなのだろうか。
 ――まだ使える刃、戦場に捨て置くには惜しい。
 戦のたび、カンベエはそう言って持てる限りの得物を拾い集めて帰還する。実際、カンベエの率いる前線部隊はお世辞にも優遇されているとは言い難く、支給される武器も決して多くはないから、使えるものを持って帰るべきなのは間違いない。だが武器を拾う理由がそれだけではないことを、シチロージたちも分かっている。だから誰しもが、戦場に落ちた武器を持ち帰るのだ。例えばカンベエやシチロージが使うような愛用の業物であれば持ち主はすぐに分かるし、汎用の軍刀であっても柄の数字の刻印を見ればそれが誰に支給されたものであるかが分かり、結果的に主が割り出せる。シチロージは焦げて腹の内側を晒す骸を一瞬思い出した。手掛かりもろくに残さずに散った命を確認する一番良い方法が、武器を持ち帰ることなのだ。
 歩み寄るカンベエから目を逸らし、足元に転がるもげた手を見下ろす。その脇に落ちた軍刀を、シチロージは拾い上げた。ずしりと右手に沈み込む重さ。呆気なく散った命の重みだった。どこにも残らない骸を弔う術など無いのだから、その持ち物を弔うことが、遺された側にできる唯一のことだ。
「私もお持ちします」
「シチロージ」
「お一人で抱えて帰るにはちと重いでしょう」
 こんなときだからこそ、わざと軽口めいた調子で言い、シチロージはまた笑った。その二重の意味が伝わったのだろう、カンベエがほんの少しだけ、呆れたような笑みを浮かべる。
「お節介な部下を持ったものだな」
「おや、今頃気付かれたんですか?」
 おどけた口調で言いながら、友軍の軍刀をもう一振、拾い上げる。そうしている間にカンベエがシチロージの直ぐ傍らにやって来て、そして示し合わせたように、二人で撤退の方向へと歩き出す。失われた命の重さをその手に感じ、生き残った己の命の重さを噛みしめながら、静寂の立ち込める戦場を歩き続ける。
 歩き続けるのは、それが生き残った者の定めだからだ。そして生き残るのは、ひとえにカンベエと共に歩き続けたいからだ。この人の力になりたいと戦い続けて、気付けばシチロージは古女房と揶揄われるほど長く生き残っていた。隣に並んで歩く男と、言葉を交わさずとも通じ合うようになった。
 だからこそ、ますます生き残りたいと思うようになってしまった。散った命の重さなどとっくに背負いきれないほどに膨れ上がり、戦局が進むにつれてシチロージもカンベエも数えることを止めてしまった。それでも否応なしに、命の重さは両肩にのめり込む。きっとシチロージが抱えるものより、カンベエが抱えるそれはもっと重いのだろう。だからその重荷を共に分かち合いたかった。自分が死なずに生き残ることが、その答えだった。
 焼け焦げた土を踏む。かつては人だった何かを脇に見て、千切れた機械の断片を跨ぐ。そんな二人の頭上、遠い上空から耳にこびりついて離れないエンジン音が聞こえた。シチロージは弾かれたように空を仰ぐ。幾つもの小さな赤い点が青い空を駆けていくのが目に留まった。紅蜘蛛型の機体もまた、この戦から撤退しているのだろう。
「直に、次の戦があろう」
 シチロージの傍ら、空を見上げるカンベエの淡々とした声。その抑揚のない口調とは裏腹に、黒灰色の瞳には明確な意志が宿っていた。
「そうでしょうとも」
 シチロージは一度目を閉じ、そして開く。疲労の抜けない体を引き摺りながら、それでも彼と同じ意志が瞳に宿るのを感じる。誰もが戦う意味も理由も見失った戦だが、それが終わっていないのならば、戦うだけだった。
 自分たちの戦いを、無意味と笑う者も居るのだろう。だがカンベエと共に戦い続ける限り、シチロージにとってこの戦いは決して無意味なものではなかった。誰かの軍刀を握り締める。無言で託された命の重さに喘ぎながら、それでも散った命を踏み越え、自分は前へ進み続ける。歩き続ける。生きるために。生きて、自分の傍らを歩く人の力になるために。
 いつの日か、終わりが来るまでの間。シチロージは生きて、生きて、生き続ける。それがこの上官に仕える己の使命だと信じて、シチロージはカンベエと共に、焼けた戦場の跡地を踏み締めた。